キリスト教の世界観

2020.10.21

開発秘話

キリスト教の世界観

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/よく西欧の歴史観は、天地創造から最後の審判まで直線的だ、などと言われるが、じつは、エデンの園に始まり、エデンの園に終わる、きれいな歴史の円環になっている。/

重要なのは、キリスト教として、無抵抗に処刑されたイエスの「救済」とやらが「贖罪」として説明されたことです。すなわち、イエス自身は、無実にもかかわらず、他の人々の罪をかぶり、代わりにその罪を贖った、これによって我々は救われた、と信じるのが、キリスト教です。

J でも、何の罪なんですか?

ユダヤ教でも、神の律法を不十分にしか守っていないのせいで苦難に追いやられている、という発想は、古代にはありましたが、預言者エゼキエルなどは、バビロン捕囚で国が滅ぼされて、その罪も清められた、としています。一方、キリスト教の西方合同教会、つまりカトリック派は、イエスの贖罪に対応させて、原初のアダムとイヴの罪、原罪がすべての人間に及んでいる、と考えています。

J そんなの、遠い昔のアダムとイヴがやったことで、なんでその後の人間すべてがその罪を負っているってなるんですか?

とにかくまずイエスの贖罪があっての後付けだから、なんの罪なんだか、教会の中でも話がまとまっていないんです。エイレナイオスは、アダムは人間の代表、だから、その罪はみんなの罪、とし、テルトゥリアヌスは、アダムから罪を相続した、と言い、また、アレクサンドリアのクレメンスは、すべての人間は事実として罪を犯す、とします。

本人が病的な性交依存症だったアウグスティヌスに至っては、性交だ、性交は罪なんだ、すべての人間は罪から生まれるのだ、などと言い、神から特別な恩寵を与えられないかぎり、人間に罪を犯さない、つまり性欲に溺れない自由など無い、とします。一方、アウグスティヌスの恩寵主義に批判的だった同時代のペラギウスは、神は人を善なるものとして創った、アダムの罪はアダムの罪、むしろイエスを範として自由意志で罪を避け、徳を積め、と説きますが、これは異端とされてしまいました。

結局、カトリックは、原罪を、神に背くこと、などという、ざっくりした一般論で煙に巻くことに。これに対し、プロテスタント、とくにカルヴァン派は、全的堕落、すなわち、全人類が全人格で罪に陥り、みずからは救いに至る意思能力を失っている、だが、神は特定の人々の救いを予定し、イエスはその選ばれた人々の罪のみを贖った、として、新たな選民主義を主張します。

J なんかよくわかんないなぁ。

失楽園神話を素直に読むなら、アダムとイヴの罪は、善悪知の木の実を食べたことです。それで、人間は、神の摂理の全体像を知らないくせに、知ったかぶりで神のようになんでもすぐ善悪を決めつけたがるようになった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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