/よく西欧の歴史観は、天地創造から最後の審判まで直線的だ、などと言われるが、じつは、エデンの園に始まり、エデンの園に終わる、きれいな歴史の円環になっている。/
すなわち、モーゼの前に神が現れたとき、名を問うと、神は、エヒイェ・アシェル・エヒイェと答えました。最初に、先祖の神だ、と言っているのに、モーゼがしつこく名まで聞くから、神は、私は私だ、と言った、と取るのが、ふつうでしょう。ところが、その前に「私はかならずあなたと共に在る」とも言っており、また、『黙示録』の「在りて、在りし、来たる方」という神の表現からも、である、の方を重視して、我は在りて在らん者だ、という解釈を生じ、これがヘレニズムの存在論とも結びついて、キリスト教では、神は存在を本質とする、という、ひどく難解な話になっていきます。
J あー、めんどくさそう。
ただし、神は存在であっても、ヘレニズム哲学に出てくる存在のような世界そのものとは異なります。というのも、こんどは、この存在神を、『創世記』の、神は創造主である、という、まったく別の定義と結びつけなければならなかったからです。それで、存在する神によって、無から被造物としての世界が創造され、存在させられている、というように、存在する創造神と、存在させられている被造物の世界とは、絶対に越えられない区別がある、とされます。
J ほほう、世界は存在させられているだけで、ほんとうの意味では存在していない、と。
『創世記』によれば、第一日目に、神は天と地を創り、光あれ、と言って、昼と夜を成します。第二日目、神は天を造り、水を上下にに分けます。第三日目、下の水を海に集め、乾いた陸を現し、草や木を生えさせます。第四日目、太陽と月、星々を造ります。第五日目、魚と鳥を造ります。第六日目、地の生き物を造ります。また、「神の似姿」、イマーゴ・デイとして人を造り、地を従わせ治めよ、と祝福し、草と木を食物として与えます。そして、第七日目、神は休み、この日を聖別します。
J なんかでっかい鉄道模型を作って、最後に自分に似たちっちゃい人形を中に飾ってみた、っていうような感じですかね。
でも、これが『ヨハネ伝』だと、すこしニュアンスが違ってきます。すなわち、『創世記』や『黙示録』だと神=存在ですが、『ヨハネ伝』の冒頭では、神=ロゴス、とされます。以前にお話したように、ロゴスは、静止均衡の理性、ヌースと違って、自己展開するエネルギッシュでダイナミックな語りです。そして、世界もまたロゴスによって創られた、とされます。したがって、『創世記』の創世神話も、神は最初から世界を完成させたのではなく、世界ができていくようにすべてを設定しただけで、だからこそ第七日目を休まれ、その完成を待った、ということになります。この神の世界設定を「摂理」、プロウィデンティアと言います。
哲学
2020.06.07
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2021.04.05
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。