/敗戦後、外地から引き上げてきた帰還軍人たちの多くは、いずれまた日本軍は復活すると信じて待ち続け、時代に置き去られた。一方、過去を忘れ、現実を割り切って、新時代とは何か、何ができるか、を模索した人々は、大衆産業で高度経済成長の波に乗った。/
羊時代や胡椒時代と同様、いずれ、この百年こそ、病的で異常な大衆産業の躁乱だった、と気づくだろう。これまではたしかに健全な大量の兵員や労働者、そして大量消費者を作ることが、国富への道だった。しかし、国民戦争だの、大量生産だのの時代でなくなれば、こんなことは、限られた国力をドブに捨てるようなもの、と見なす人々も増えてくる。
カネにならないことに、だれも投資しない。それは、国家も同じ。既得権を持つ大企業や消費者をむりに保護しても、国家として衰退してしまう。国は国民のためのもの、などというのは、それが国富につながった前世紀の幸運なマリアージュにすぎない。国民と国富の共依存関係がとぎれれば、百年前の普通選挙化、人権平等化の運動も逆転し、ただ浪費し寄生する者としてしか社会に存在意義のない連中の意見など、政治や経済は聞き入れなくなる。つまり、民主主義や大衆経済そのものが、露骨に平然と無視されるようになってしまうだろう。
敗戦後、外地から引き上げてきた帰還軍人たちの多くは、いずれまた日本軍は復活すると信じて待ち続け、時代に置き去られた。一方、過去を忘れ、現実を割り切って、新時代とは何か、何ができるか、を模索した人々は、大衆産業で高度経済成長の波に乗った。しかし、その娯楽、観光、外食というアンシャンレジームの大衆奢侈産業時代もまた、終わりつつある。一方、ただで国が与えてくれていた大衆向けの教育や保健に代って、個人型のプレミアムな教育産業や保健産業は、最先端の通信機器を活用し、すでに走り出している。また、食品や日用品などの基本的な生活物資産業は、あいかわらずいたって堅調だ。しかし、これらの新時代の「基幹産業」から外れた者は、再び前々世紀以前の「農奴」に没落する。
資本主義の強みは、古い産業から資金や労働力を引き上げ、新しい産業に投資する流動性、新陳代謝にこそある。だが、正直なところ、今後、あまり良い時代が来るようには思えない。とはいえ、時代の流れ、文明の変化は、あまりにも巨大で、だれにも止められない。生き残るには、流れ、変化を乗り切っていくしかあるまい。
経営
2017.10.13
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2020.06.13
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2021.01.04
2021.02.03
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。