/古代ローマはきれいごとの一方、裏はドロドロ。他人との関わりを断つ懐疑主義、快楽主義、禁欲主義がはやった。まして、当時、選民かぶれのユダヤは憤懣と隠謀と混乱が渦巻いていた。その地でヨハネの後に現れたイエスは、むしろ神のしもべとして人を救うために働くことを教えた。その意味をパウロが理解したとき、彼はイエスこそが神だと確信した。/
社会の再構築
そのころ、ローマでは、あいかわらず懐疑主義、快楽主義、禁欲主義がはやっていた。ひとはひと、他人に関わるな、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。裏だらけの時代では、それが身を守る方法。しかし、パウロが広めたイエスの教えは、民族の壁を越えて、少なからぬ人々を魅了した。白黒をはっきりさせ、自分の損得を度外視し、現状に甘んじたりせず、いつか理想のパラダイスが実現することを夢みた。
どうせ人は死ぬのだ。人を裏切るようなきわどい手段で、どんなに地位を得て、財産を貯め込んでも、死ともに俗世のものは俗世に返すことになる。失う不幸が絶対的に運命づけられている。一方、たとえ自分自身が貧しく無名であっても、直接に医者や教師になれなくても、餓死しかかった子供たちを親身になって救い支えれば、その子供たちの中から医者や教師になる者も出て、さらに子供たちを救い教えることができる。神のしもべとして自分が尽くした人々のうちの何人かが、自分のこと、そして神のことを思い出し、また同様に神のしもべとして働くなら、この善意の大きな流れにおいて、きみは永遠に生きることができる。
さて、現代はどうだろう。外できれいごとを言う人が、人を蹴落とすためには手段を選ばず、裏であれこれ画策。神も、仏も、なんの信心の無いやつは、人間として絶望的で、なにをするか、わかったものじゃない。さて、ここで、こんな連中に巻き込まれないように、とにかく誰との関わりをも断って、ただ身を守ることに汲々とし続けるか。それとも、時勢に逆らい、捨て石になっても、もっと違う世の中へ、自分から一歩を踏み出してみるか。きれいごとを言っているだけでは始まらない。まずは、隣人から、御近所から、なにかできることがあるのではないか。裏切りに次ぐ裏切り、人が人を喰らう悪循環、社会崩壊をとどめ、むしろ逆に、結束、再生へと廻し始めるには、相応の覚悟が必要だ。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)
純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学 哲学教授
我、何を為すや。忙しさに追われ、自分を見失いがちな日々の中で、先哲古典の言を踏まえ、仕事の生活とは何か、多面的に考察していく思索集。ビジネスニュースとしてシェアメディア INSIGHT NOW! に連載され、livedoor や goo などからもネット配信された珠玉の哲学エッセイを一冊に凝縮。
哲学
2017.05.23
2017.05.30
2017.06.06
2017.06.13
2017.06.28
2017.07.04
2017.07.20
2017.08.02
2017.08.30
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。