この2つの言葉で責任感を判断できる!? 本当に責任感があれば、ほとんど発しないであろう言葉… 鳥取砂丘落書き事件の後のネット上のお祭りを見て、フと感じたことです。
鳥取砂丘に名大生が落書きしたニュース、ご存知の方も多いと思います。
学生時代、誰しも「ハメをはずしたくなる」ので、
「気持ちはわからなくもない」
「けれどここまでやるのは余りにも常識外れ」
などいろいろ、事件そのものについての意見はあるかと思います。
僕自身も、
「学生時代ハメ外すことあったよな~」
「でもこれは僕はやらんな~(明らかに美観を損ねるってわかるもの)」
「ただ、名所旧跡に“たかし、愛してる。byゆうこ”なんて落書きする連中も、基本同じじゃん」
という「感想」はありますが、事件そのものを批判したりするのは避けます。
このような「悪ふざけ」が本人たちの意識をはるかに超え、問題化したとき、大切なのは
「その後の行動・気持ち」
です。
この関係者の皆さんが、新聞沙汰になった後に、様々な掲示板などのネットに残した形跡からは、残念ながら(とでもいいますか)
「悪気があってやったわけではない(だから許して欲しい)。」
という姿勢が見え隠れするんですよね。
事例があった方がわかりやすいので紹介しましたが、ここからが本題です。
「悪気があってやったわけではない」
という言葉、気持ちはわかるんですけど、当事者が言ったり、醸し出したりしちゃいけない言葉の一つです。
悪気があってやるのは、最初から犯罪者、あるいは非道徳者。
悪気がないのがフツウの人。
ならば、この言葉を発することに、余り意味はありません。
ではなぜ、この言葉を発するか。
…自分が言いたくなるときのことを考えてみてください。
思わず出てしまいそうなこの言葉。
人間の持っている弱さが顕わになった、責任逃れからくる言葉だと思いませんか?
やったことに対して「すべての責任は自分にある。申し訳ない」という責任感、潔さがある人は、この言葉がでないと思いませんか。
悪気があろうとなかろうと、迷惑をかけたことが事実であれば、自己弁護より先に醸し出さなければいけない「潔い」という姿勢が大事でしょう。
普段から親交のある人間が「悪気があってやったことじゃない(ので彼・彼女を許してやって欲しい)」というのは、構いません。
ただ、「悪気がなかったから許される」度合いが高いのは、事の善悪が判断できない年少者であればあるほど。
ということは、当事者は周りから「悪気はなかったから(お前を)許してほしいよなあ…」という言葉を発せられたとき、自分が「子ども扱い」されていることを肝に銘じ、謙虚に振舞うべきでしょう。
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