/哲学は、もともと語るものではなく、生き方そのものです。だから、彼らの歴史上の生き方を見れば、彼らの思想もわかりますよ。とくに記録にない女性たちの人生を理解するには、実際の歴史から学ぶことが大切です。/
22.12. フランス革命:1770-93
フランス政府の財政は、度を超えた浪費と数々の国際戦争のために危機的な状況に陥っていました。だれもが節約と増税の必要性を理解していましたが、それを受け入れようとする者はいませんでした。それどころか、農民と地方鄕士、都市庶民とブルジョワ階級、新領主と教会、そして王族の中でさえ、たがいいの浪費を非難し合いました。
「だれも自分の生活を変えようとはせず、ひとにただ乗りしようとしていただけだ」
米国独立戦争への過剰な支援は、致命的でした。政府の増税案に対し、国民は、税金の決定権は三部会のみにある、と主張しました。1788年、グージュは一連の政治パンフレットを出版し、有力者たちに送付しました。彼女は英国風の立憲君主制を提唱しました。彼女以外にも、不満を抱いた主婦たちは、当局に直接請願したり、街頭デモを行ったりしました。
「公職にない女性は無敵だよ」
1789年五月、ヴェルサイユ宮殿で会議が開かれましたが、代表者たちは議論の進め方すら合意できませんでした。政府は暴徒鎮圧のためパリ市に軍隊を派遣しましたが、給料が滞っていた兵士たちは命令に従いませんでした。こうして廃兵院の銃が奪われ、七月には革命が勃発しました。国民議会は、夏に人権宣言を発布しましたが、新政府の方針が定まらなかったため、なにも解決できず、食糧危機が混乱をさらに悪化させました。そんな中、マリー・アントワネット(1755-93)が「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったというウワサが広まりました。十月には7000人のパリの女たちが自発的にヴェルサイユ宮殿に集まり、王室一家をパリに呼び寄せました。しかし、男たちは男性中心の新政府への女性の参加を拒否し、女性の集会さえも禁止しました。
「男たちは、女の明解な力や主導を恐れていた」
コンドルセ侯(1743-94)とその妻ソフィー(1764-1822)は、女性解放運動に賛同していました。グージュは、かれらとともに「真実の友」を組織し、1791年に「女性の権利宣言」を発表し、女性の言論の自由と契約婚の権利を主張しました。しかし、ハイチで黒人解放運動が勃発すると、グージュは、その扇動者として非難されました。反革命戦争でオーストリアとプロイセンに攻撃された革命期のフランスは、立憲君主制を共和制に転換し、王位を廃止しただけでなく、王族の排除にも着手した。グージュは、国王を擁護しようとしましたが、反発を招くだけでした。銀行家ネッケルの娘、アンヌ・スタール(1766-1817)もまたサロンの知識人で、人権主義者であり、マリー・アントワネットとその友人たちの命を救うために尽力しましたが、ムダでした。国王一家は、1793年一月に処刑されました。
「男が女より理性的だなんて、けして言えないな」
結局、ジャコバン派のロベスピエール(1758-94)が1793年五月に恐怖政治を始め、グージュを処刑し、1794年にはコンドルセ侯も暗殺しました。それまでフランス国王軍はスイス傭兵で構成されており、ブルジョワ階級は、治安維持のために各都市に自警団を組織していました。革命が起こると、かれらは国民衛兵に改編され、国王軍を打ち破りました。ロベスピエールは新大陸における黒人奴隷制を禁止する一方で、徴兵制を実施し、国民衛兵を80万人以上に増強し、かれらを自分の手駒にして反対派の虐殺を行いました。
「徴兵制は、国民すべてを彼の奴隷にした」
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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