第22講 人々の自由と女性の地位(後半)

2026.04.14

ライフ・ソーシャル

第22講 人々の自由と女性の地位(後半)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/哲学は、もともと語るものではなく、生き方そのものです。だから、彼らの歴史上の生き方を見れば、彼らの思想もわかりますよ。とくに記録にない女性たちの人生を理解するには、実際の歴史から学ぶことが大切です。/

22.10. 歩兵連隊:18C

 ポーランド(1733-38)とオーストリア(1740-48)で継承戦争が繰り返され、これらの戦争は、ジョージ王戦争(1744-48)など、新大陸にも紛争を引き起こしました。プロイセンとオーストリアの間でシレジアを巡って繰り広げられた七年戦争(1756-63)は、新大陸のアパラチア地方を巡ってイギリス東海岸植民地とフランス中西部植民地の間で起こったフレンチ・インディアン戦争と並行していました。

「18世紀は、絶え間ない戦争の時代だった」

 軍事的な負担と財政的なコストは、各国の社会と経済を破綻させました。多くの国が常備軍を持っていましたが、それはじつは新領主将軍がいただけで、かれらは毎回、ごろつきや農民から兵士を徴募するか、傭兵を率いる自由将軍たちに頼らざるをえませんでした。

「そんな兵士たちで戦争ができた?」

 軍事訓練なしで、兵士たちは敵陣に攻め込み、100メートル先から砲火をくぐり抜け、50メートル先からマスケット銃で一斉射撃を交わし、そして突撃しなければなりませんでした。この戦闘方法では、兵士たちは、ひるまず太鼓の音に合わせて隊列を維持して行進することが求められました。それゆえ、将軍たちは、強い酒と厳しい罰で、兵士たちを羊のように従順にさせました。

「でも、突撃以前に、多くの兵士が砲撃や銃撃で倒れたでしょ」

 そのときは、後列の兵士が前に出て、行進を続けなければなりませんでした。そうでなくても、劣悪な環境で、多くの兵士が戦役中に病死しました。しかし、将軍たちにとって、死傷者は単なる確率の問題にすぎませんでした。兵士は消耗品であり、黒人奴隷と同様に、容易に補充できる存在だったからです。

「彼らは羊以下の扱いを受けていたのか。いったい誰がそんな兵士になりたがる?」

 戦争は土地を荒廃させ、農民の貯えさえも奪い去りました。だから、かれらには兵士になるほか、生きる道はなかったのです。残された家族は、都市へと押し寄せ、低賃金労働者、売春婦、そして悪党になるしかありませんでした。

「十八世紀のロンドンは、ジン中毒者で溢れていたと言うよね」

22.10. 新大陸の混乱:18C

 十七7世紀に最初に新大陸に着いた「ピューリタン」は、実際は、カトリックに対してはもちろん、生ぬるいイングランド国教会に対しても抵抗していた、さまざまな過激諸派の寄せ集めでした。そして、啓示による新興クエーカー教徒のような集団が、かれらに続きました。さらに、新領主やイングランド国教会によって追放された、かつてのカトリック封建領主のジャコバイトも、新たな領地を求めて新大陸へと渡ってきました。くわえて、十八世紀になると、戦争や貨幣経済によって土地や財産を失った鄕士や貧農も、さまざまな国から逃れてきました。

「まるでヨーロッパのゴミ箱のようだ」

 かれらはかならずしも仲が良かったわけではありませんでしたが、さいわい、新大陸は広く、「インディアン問題」を除けば、それぞれが別々に暮らすことができました。しかし、十八世紀半ば以降、新大陸は、スペイン、フランス、イギリスの支配地域に分割され、インディアンや他国との戦闘で、軍事費が増大しました。それで、母国は、かれらにその負担を求め、かれらを怒らせました。

「どちらの言い分もわかるなぁ。母国からすれば、植民地はただ乗りだけど、植民地からすれば、母国は自分たちを追放した張本人だったのだから」

 かれらは、税金を取るなら政治に加えろ、と主張しました。とはいえ、かれらはもとより母国の政治的な厄介者です。1774年、フィラデルフィア大陸会議に英国人たちが集まりましたが、かれらが本当に各州を代表していたかどうか、疑わしいものでした。ジャコバイト領主や公式開拓隊、黒人奴隷を使う農民たちは、むしろ英国本国を支持していました。それでも、大陸会議は開戦(1775-83)し、植民地全体に紛争が拡がりました。

「それは隣人同士が撃ち合う内戦だった」

 ワシントン(1732-98=99)は大陸軍総司令官に選出されましたが、当時、そんな植民地軍はまだありませんでした。一方、英国は、新興領主将軍たちを派遣したものの、新大陸のジャコバイト領主たちとソリが合いませんでした。さらに、兵員不足を補うため、英国は、ヘッセン伯から英語も話せない貧しいドイツ人農民傭兵を大量に雇わざるをえませんでした。イギリス植民地人を憎むスペイン人やフランス人、さらには先住民インディアンまでもが、英国側につきました。逆に、その母国のスペインやフランスは、英国を新大陸から追放すべく、英国植民地側を支援しました。しかし、ヨーロッパ各地のメイソンの新領主や知識人たちは、志願兵として植民地側に駆けつけました。

「ややこしすぎるよ。どのみち、双方とも指揮系統が混乱していて、まともな戦闘にはならなかっただろうな」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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