/哲学は、もともと語るものではなく、生き方そのものです。だから、彼らの歴史上の生き方を見れば、彼らの思想もわかりますよ。とくに記録にない女性たちの人生を理解するには、実際の歴史から学ぶことが大切です。/
22.09. 綿花革命:18世紀
しかし、戦争はあいかわらず経済に大きな影響を与えました。王族間の複雑な婚姻関係は、オランダ(1667~68年)、ライン(1688~97年)、スペイン(1701~14年)、北イタリア(18~20年)における王位継承戦争を引き起こしました。投資先を選ぶため、鄕士たちはコーヒーハウスに集まり、新聞を読み、フリーメイソンに加入し、頻繁に情報交換を行いました。
「まさに、知は力なり、だな」
なか中でも、英国の南海会社(1711-20)とフランスのミシシッピ会社(1717-20)は、高リスク事業でした。両社は、スペインから奪いとる予定の黒人奴隷貿易を基盤とし、成功すれば莫大な富をもたらす大計画でしたが、まだ実体がありませんでした。にもかかわらず、両社の株価は10倍に跳ね上がりました。
「そんなの、純粋な投機だ」
ええ、両社とも1720年に倒産し、多くの鄕士たちが財産を失いました。しかし、英国の東インド会社だけは順調でした。同社は、麻の安価な代替品としてインド産の綿織物を輸入していました。鄕士たちは、カーテンやテーブルクロス、さらには女中の服まで綿織物を使って節約しました。綿織物は吸湿性に優れ、繊細な花柄が人気だったので、淑女たちもウールや絹の代わりに綿ドレスを着るようになりました。毛織物商人たちは綿織物の輸入を禁止しましたが、インド駐在の外交官や役人が持ち帰り、逆に綿のドレスは宮殿の女性たちの間で貴重品として注目を集めるようになりました。
「歴史的な皮肉だな。人は手に入りにくいものを欲しがる」
それで、商人たちは新大陸から綿球を輸入し、インド綿織物をまねて独特の模様をプリントし始めました。さらに、各国の海軍も、麻の代わりに無地の綿織物を帆布に使用し、作業服の安価な素材として再利用しました。こうして綿織物の需要は急増し、各国は新大陸と北アフリカ産の綿花をめぐって激しい競争を繰り広げました。
「こうして、王族から下層労働者まで、だれもがみんな同じ綿の服を着るようになった」
イングランドでは、北西部のリバプールが新大陸への玄関口でした。都市部の投資鄕士たちの中には、水路で港と繋がった故郷(マンチェスター、ランカシャー、ウェスト・ヨークシャー、サウス・ヨークシャー)に戻り、みずから綿織物産業に参入する者もいました。当時はまだ個々の起業家が乱立する状態でしたが、特許を無視し、ケイ(c1704-c79)が発明した鋼鉄織機(1725)や飛び杼(1733)を使って、生産性を飛躍的に向上させまし。これに憤慨したケイは、フランスへ渡り、ノルマンディー地方で自らの発明を普及させまし(1747-)。
「当時はまだ、発明家が正当な評価を受けられない時代だった」
ランカシャーの綿工業の貧しい労働者、ハーグリーブス(c1720-78)は、1764年にジェニー紡績機を発明し、八本の糸を同時に生産できるようにして、糸の供給業者として独立しました。しかし、職を失う危機に瀕した紡績労働者からの攻撃を受け、また、他の糸の供給業者にも模倣されたため、1768年には南のノッティンガムへ移らなければなりませんでした。彼の友人でカツラ職人だったアークライト(1732-92)も彼に同行し、1771年、ノッティンガムの北西20kmのクロムフォードに小さな自動紡績工場を建設しました。水車小屋のそばに設置された彼の機械は、熟練労働者を必要とせずに、綿球を繊維に、そしてさらに糸へと加工しました。
「それこそが産業革命と資本主義の幕開けだった」
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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