儒家と儒学、儒教の違い:道教との関係

画像: 玄学に耽る竹林七賢

2024.12.02

ライフ・ソーシャル

儒家と儒学、儒教の違い:道教との関係

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/儒家と儒学、儒教。どう違うのか。まあ、英語ではどれも Confucianism なのだが、漢字文化圏で言えば、一派と学問、宗教では、かなり違う。そして、この問題には、儒家の当初からつきまとう道教の影響がある。/

漢朝は、多様な学者を博士に任命し、助言させた。その一人、董仲舒(179-04 BC)は第七代武帝に博士を儒者に限るように進言し、こうして前136年に儒学が国学となった。董仲舒は、孔子が前722年から前481年までの魯の出来事を記した『春秋』を研究し、孔子の《陰陽主運論》と『春秋』の前例を、法家の条文法にまさる憲法とみなした。それゆえ、彼によれば、君臣、父子、夫婦の《三網》は、陰陽の組み合わせとして人間の根本である。彼はまた、鄒衍の《五徳之運論》も信じ、政治の善し悪しは、天の恩恵と災難に反映される、と考えていた。しかし、皇帝の良否をも断じるこの理論は、武帝の怒りを買い、彼は失脚した。

その後、孔子は、天の《道》に基づく神のような預言者として崇拝されるようになり、この儒教において、儒家の古典に神秘的な注釈を施した《讖緯(しんい)》が数多く作られ、そのオカルト的な意味を探求した。さらに、《讖緯》を悪用し、王莽(45 BC - 23 CE)は、紀元8年に漢朝から帝位を奪い、彼に対する農民の反乱も、《讖緯》に従って起った。そこで、光武帝(6 BC - 57 CE)もまた《讖緯》に則って、25年にようやく後漢を復興した。

このように儒教の《讖緯》は、政治混乱の元凶だった。そこで、後漢第三代の章帝(56-位75-88)は、79年、主な儒学者を朝廷に招いて白虎観会議を開き、「今文」と「古文」、とりわけ儒学古典と儒教讖緯の間で、文献と教義を統一した。こうして、《白虎通》が儒学儒教の公式共通教義となった。これは董仲舒の見解、《三網五常》(君臣・父子・夫婦、仁義礼智信)を基本線とするものであり、道教の《陰陽五行》が儒学の核となったことを意味した。

ただし、儒学者たちは、道教や儒教のような《象数易》、すなわち、《道》を予言の手段として扱うことを嫌い、《道》をもっぱら儒学の原理とする《義理易》を論じた。こうして、儒学者が文字解釈の《訓詁学》に熱中している間に、宦官や王族が権力を握り、漢朝は220年に滅亡した。以来、官僚は政治の議論を避け、何晏(196-249)と王弼(226-49)は《玄学》(形而上学)を始めた。彼らは『易経』を儒学の根本聖典とし、道教の『老子』と『荘子』をその注釈とみなした。彼らは、世界の元は無であり、それがつぎつぎとすべてを生み出した、とし、したがって、すべては自然の《道》に従っており、我々も余計なことはせず、既存のものと調和を保つ方が良い、と考えた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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