儒家と儒学、儒教の違い:道教との関係

画像: 玄学に耽る竹林七賢

2024.12.02

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儒家と儒学、儒教の違い:道教との関係

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/儒家と儒学、儒教。どう違うのか。まあ、英語ではどれも Confucianism なのだが、漢字文化圏で言えば、一派と学問、宗教では、かなり違う。そして、この問題には、儒家の当初からつきまとう道教の影響がある。/

一方、儒家魏塾の子夏は、実証的に古典を研究し、実務官僚を多く輩出した。しかし、その結果、彼らの考えは曾子の魯塾ほど楽観的ではなくなった。彼らは、古代の政治が理想的ではなかっただけでなく、その後の歴史も裏切と失敗の連続であると知ったからである。そこで、李克(455-39 BC)は、儒家魏塾から独立し、法家として魏国に仕え、これを発展させた。

しかし、法家を信奉した商鞅(390-38 BC)は魏で用いられなかったので、西の小国、秦に移り、伝統を破って法改革を行い、集めた人材で秦を大国に押し上げた。そのころ、儒家魯塾で学んだ孟子(372-290 BC)は、仁を人間の本性、あるいは天命の〈道〉として主張した。彼は斉の稷下学宮を訪れ、傲慢に自己を売り込んだ。しかし、彼の同輩だった荘子(369-286 BC)は、孟子のような作りもののきれいごとを嫌って、《無為自然》を尊ぶ道家に転向し、庶民の生活に身を隠した。

荀子(c316-c235 BC)は稷下学宮で儒学を学んだが、孟子の巧みな弁舌と横柄な人柄の落差に呆れ、むしろ儒家魯塾とは逆に、性悪説を思い、邪悪を許さない厳格な礼節の必要性を説いて、稷下学宮の事務長に任じられた。鄒衍(c305-240 BC)も稷下学宮で儒学を学び、孔子の《陰陽主運論》に、儒教の徳論に道教の五行を合わせた、徳が運を進めるという独自の《五徳之運論》を加えて歴史を研究した。彼は土を中心に置いて、木と火を陽、金と水を陰とみなし、土信、木仁、金義、火智、水礼、ふたたび土信に戻る、なぜなら後者は前者にまさるから、と考えた。

韓非(c280-33 BC)と李斯(280-08 BC)は荀子に学んだが、混沌とした時代には古臭い慣習よりも明確な法律のほうが有効であると考え、法家へと転向した。当時、秦は前262年から260年にかけて長平の戦いで勝利し、覇権を握っていた。韓非は故国の小さな韓に戻って改革を試み、一方、鄒衍の五徳之運論に従って、金義の殷、火仁の周の次は水礼が勝つと信じていた秦の始皇帝(259-210 BC)に、李斯は採用された。韓非が外交で西隣の秦を訪れたが、韓を秦が吸収すべく、李斯は旧友の韓非を拘禁し自殺に追い込んだ。さらに、前221年に秦が中国を統一し、儒家が実力主義に抗うと、李斯は躊躇なく古典を焼き捨て、儒者を埋め殺す「焚書坑儒」を行った。


漢代儒家の変貌

儒家の古典研究の中心だった魏塾は、「焚書坑儒」で壊滅したが、魯塾は、祭祀に徹することで迫害を免れた。次の漢朝(206 BC - 8 CE)が権力を握ると、皇帝の親族を地方官職にまで登用して、宗族制を復活させたため、魯塾の儒者がその冠婚葬祭でふたたび活躍するようになった。魯塾は、失われた古典を暗記しており、これを書き起こして復元した。ところが、壁土や墳墓の中に隠されて難を逃れた古典も、つぎつぎと発見された。こうして儒家古典は「今文」と「古文」という二つの系統が並び立ち、その異同解釈をめぐって論争が起こったが、あくまで魯塾今文が正統とみなされた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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