/哲学はただ世界を問うだけではありません。むしろ我々自体が最大の謎です。このことは、アリストテレスからローマ時代に気づかれました。そこでは、我々はどう生きるべきかが問われ、イエスもこの問いを取り上げました。/
「アテネのアカデミアはソクラテスが懐疑派の先駆だとでも考えたのかな?」
ローマ人は、むしろ敗北したギリシアに進軍し、前215年にはマケドニアと直接戦闘を開始しました。フェニキア人とマケドニア人に対する二つの戦争の間、ローマ人は安全のためにシリアの王子アンティオコス四世を人質にとりました。前175年に王としてシリアに戻ったとき、彼はシリアを先進的なローマの普遍スタイルに改革し、ユダヤ人自治区にもそのスタイルを強制しました。それで、前167年、マカベア家が反乱を起こし、再びユダ王国を建国しました。一方、ローマ人はフェニキア人とマケドニア人を破り、前146年までに北アフリカからエーゲ海までのすべてを支配しました。
「ああ、国際情勢はドミノ倒しのように劇的に変化しましたね」
しかし、急速に成長したローマ人は内部から腐敗していました。新貴族のノビレスは、多数の敗戦奴隷を抱えて、地方に広大なプランテーションを所有し、私兵を雇って、たがいに戦い始めました。さらに前73年、スパルタカスが多くの奴隷や貧民を巻き込んで、大規模反乱を起こしました。シリアやユダヤでの反乱を恐れたローマ人は、前64年にそれらを属州に再編入し、外国人将軍を総督に任命しました。
「彼らはみな、昔のアルキビアデスのように自己中心的だなぁ」
前63年にストア派のキケロが執政官に選出されましたが、ノビレスの一人が元老院ごと、転覆させようとしたため、彼はすぐ彼を追討し、「国の父」の称号を与えられました。ところが、若き野心家のカエサル、ポンペイウス、クラッススは、キケロの手続上の不備を非難し、元老院を説得して、前60年にローマ共和国をガリア、スペイン、シリアに三分してしまいました。
「悪党は、自分の利益のためなら、なんでもするなぁ」
キケロはローマを去り、プラトンをまねた対話篇『DE RE PUBLICA』を書きました。その中で、彼は、たとえ無意味で不可能であっても、地上で最善を尽くすことが人間の使命であると主張しました。しかし、クラッススが戦死し、カエサルがポンペイウスを暗殺し、カエサルも元老院で殺されると、キケロはすべての黒幕と疑われ、前43年に自殺に追い込まれてしまいました。
「キケロが本当に? 悪ガキたちが自滅しただけでは?」
洗礼者ヨハネとイエス
ユダヤでは、外国人総督の息子、ヘロデが前37年に王になり、ローマでは、オクタヴィアヌスがエジプトを破って、前27年に初代皇帝になりました。ヘロデ大王には七人の息子がいたものの、母親が異なり、仲が悪く、父ヘロデまで殺そうとした者もいました。だから、前4年に彼が亡くなった後、王国は混乱に陥りました。一方、オクタウィアヌスには子供がいなかったので、西暦14年に妻の連れ子ティベリウスが跡を継ぎました。しかし、身勝手な元老院と野心的な政治家たちに嫌気がさし、ティベリウスは、26年にカプリ島に籠もってしまいました。
哲学
2023.12.30
2024.03.05
2024.03.14
2024.05.29
2024.06.23
2024.08.05
2024.09.10
2024.09.14
2024.09.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。