/新聞や雑誌はこの作品を酷評し、アカデミー賞からも完全に無視された。だが、映画館、そして、DVDと、この作品の人気はじわじわ昇り続けている。そのことがいま、ハリウッドを震撼させている。というのも、この作品はサーカスではなく映画を隠喩したものであり、この作品の本質が、アカデミー賞のスノッビズム(俗物主義)に対する強烈な反旗だからだ。/
バーナムがなぜリントと袂を分かったのか。リントに捨て台詞を吐かれるまでもなく、自分もまた、サーカスにしろ、全米ツアーにしろ、自分一人でショーを成功させたと思ってきた。だが、彼が勤め人を止め、興行師を始められたのは、つねに妻チャリティが自分を信じて、ついてきてくれたからだ。サーカスのアイディアも、彼のものではなく、娘たちのもの。そして、なによりサーカスの仲間たちが彼の考えたショーを全身全霊の最高の演技で実現してくれたからだ。
プロデューサー、指揮者、映画監督、社長。トップに立つ者は、おうおうに勘違いする。すべては自分のおかげだ、おまえらに生きる世界を与えてやったのは私だ、おまえらは私のおかげで喰っている、と。だが、逆だ。プロデューサーもまた、アイディアとカネとキャスティングで演じるプレーヤーの一人にすぎない。アイディアだけでは話にならない。カネもまた、そのアイディアを評価して投資してくれる者がいなければ、空中から湧いてくるわけではない。まして、実際に数十万時間をかけ、人生を賭けて、夢を形にしてくれる一万人以上のスタッフが集まってくれなければ、それは実現しない。
一人の夢は、ただのワガママにすぎない。だが、前半に登場するランタンの「お願いマシーン」は、人々の数万の夢を取り込み、そこに夢を留めておく。歌詞をよく聞いてみろ。そこで歌われているのは、じつはサーカスではなく、このランタンのように夢を集め留め、廻り輝やく映画そのもの。
芸術性うんぬんと言い、ポリティカルコレクト(政治的正しさ)と言い、『ラ・ラ・ランド』を壇上に登らせた後にブラックムービーに賞をすり替えるような、アカデミー賞のスノッブたちがハリウッドを支配しているが、映画のホームは、レッドカーペットではない。劇場であり、観客だ。そのことを忘れ、作家監督たちや主演俳優たちが、自分が世界を作ってやっているかのような思い上がりに浮かれている間に、テレビの人気シリーズドラマに追い落とされ、映画業界の興行成績はガタ落ち。
映画が芸術か。『キングコング』だの、『半魚人』だの、昔から映画はフリークスの宝庫だ。特撮でも、CGでも、トリック上等。「イカサマ王子」でなんぼのスペクタクル。当時も、あんなものは、と蔑まれ、それでアカデミー賞を作って芸術的超大作も手がけてきた。だが、最後の「From Now On」に歌われるように、それは「光」に目をくらまされた「他人の夢」だ。映画は、ほんとうはだれの夢なのか。歌って踊って感動して、見る人を笑顔にする。その笑顔は本物だ。かつて実在したバーナムは言った、「人々をしあわせにするものこそ、至高の芸術だ」と。
映画
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
2021.05.03
2023.02.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。