/世界理性が人々を使って実験しているのであって、その観念を主導する人間は、自分でやっているつもりでも、じつは世界理性に踊らされているだけ。時代の舞台に登って英雄になる人がいないではないが、ほとんどすべての人は、ムダな流行に酔わされ、大切な本来の自分の人生を失うことになる。/
ヘーゲルの弁証法
二人に対し、ヘーゲルは、二人の考えを合わせて取り込んだ。シェリンクの言うように、抽象的な観念は、さまざまな具体的な実存となるが、それらは、たしかに、それらを生み出した元の観念を否定する。しかし、フィヒテの論じたように、観念は、これらの具体化した実存との対立を再克服していく弁証法的な自己定立によって、内実を得て発展し、ついには絶対精神に至る、とする。だから、世界とは、精神の成長の歴史そのものだ、とされる。
ヘーゲルの弁証法は、シェリンク抜きには理解できない。集合と要素、汎神論的な観念と、モナド論的な実在の対立であって、同等のものの正反とその統合ではない。たとえば、最初、女の子は、自分の頭の中だけでかっこいい男の子を夢見て妄想する。これが、即自。でも、そのうち、実際にいろいろな男の子とつきあってみると、いつも予想外の失望ばかり。これが、対自。そして、いいかげんすると、男というものを等身大で現実的に理解する。これが、即対自。
革命の時代にあって、ヘーゲルは、世界もまた、同じような経験的学習をして発展していく、ということに気づいた。革命の前には、人々には、自由・平等・博愛の希望が溢れていた。ところが、実際の革命は、血みどろの恐怖政治で、処刑や暗殺、暴動だらけ。それで、結局、国王に代えて、皇帝を戴き、それが自由・平等・博愛を体現して、民法典などを整えることになる。
革命に限らない。世界は、民主主義、資本主義、帝国主義、鉄道や自動車、ラジオやテレビ、インターネットや仮想通貨、と、次々、なにか魅力的なものを思いつく。そして、それを実際にやってみるが、現実は甘くはない。でも、こうして世界は、現実的に学習して、すこしづつ賢くなっていくとされる。
ただ、ヘーゲルによれば、世界理性が人々を使って実験しているのであって、その観念を主導する人間は、自分でやっているつもりでも、じつは世界理性に踊らされているだけ。その人でなくても、別のだれかでもよかった。時代の舞台に登って英雄になる人がいないではないが、ほとんどすべての人は、ムダな流行に酔わされ、大切な本来の自分の人生を失うことになる。戦争や災害、バブルなど、すこしは一人一人が学習した方がいい。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学 、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。