/日本固有の「橘」と、中国でいう「橘」は、まったく別のモノ。垂仁天皇が求め、伊勢神宮の資金源となり、『万葉集』に詠われ、伊井家を支えた「橘」は、後者。しかし、それは日本在来の天敵が喰い潰した。/
手紙、といっても、中国ではトイレットペーパーのこと。登机、といっても、中国では飛行機搭乗のこと。同じ漢字だからといって同じものを指すとは限らない。
日本で最初の柑橘類の話と言えば、『魏志倭人伝』。倭の国の産品として、ショウガやタチバナ、サンショ、ミョウガもあるが、「もって滋味となすを知らず」とある。ここでいう「橘」は、前後の並びからして、香辛料の一種。七味に陳皮、つまりミカンの皮の粉末が入っているが、これは漢方の胃薬「六君子湯」にも使われている。つまり、日本には「橘」があるが、薬味としての使い方を知らない、食用ではない、ということ。
次に出てくるのが、『日本書紀』と『古事記』。垂仁天皇が亡くなる直前の2月1日に、三宅(みあけ)氏の祖、多遅(たじ、田道間(たじま))守を「常世国」に使わせて、「ときじくの香久の木の実(非時香菓)」を探しに出した。しかし、天皇は、7月1日、纏向(纏向)の宮で亡くなり、菅原伏見陵に葬られた。奈良のその後の唐招提寺のすぐ西北のところ。多遅守は、翌年3月12日、縵八縵・矛八矛(かげやかげ・ほこやほこ、八竿八縵(やほこ・やかげ))持ち帰ったが、すでに天皇が亡きことを知って嘆き、半分を皇后に献上し、残りを御陵に供えて、そこで多遅守も死んだという。『古事記」は、わざわざ注をつけて、この実は「今の橘」だ、としている。
神職のくせに、まともに『記紀』も読めないのか、持ち帰った橘を多遅守が植えたのはここなんです、などという妙な商売神社が和歌山にあるが、『記紀』だと多遅守は奈良の御陵の前で死んでおり、和歌山くんだりまで植えに行かれるわけがない。そもそも持ち帰ったのは、苗ではなく、縵と矛(竿)。つまり、実をいっぱいに入れたカズラ籠八つと、干からびた実が枝についたままのもの(ダイダイのたぐいは熟しても枝から落ちない)を八つ、持ち帰ったのであって、土付き苗なんか、遠方から持って来たって、そんなものが木になって実がなるのを待っていたら、目前に死の迫った天皇に、間に合うわけがない。
また、本人の嘆きによれば、往復十年だが、日付入りの『紀』だと一年。本来なら、探しに出したのがまだ2月なのだから、その年に収穫できた実を天皇の下にすぐに持っ帰って来るべきはずなのに、その機を逸し、翌年の冬に実が熟すのを待って、3月12日に持ち帰って来ている。ということは、「常世国」は、奈良纏向宮から、ちょうど片道三月くらいのところのはず。
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。