/日本固有の「橘」と、中国でいう「橘」は、まったく別のモノ。垂仁天皇が求め、伊勢神宮の資金源となり、『万葉集』に詠われ、伊井家を支えた「橘」は、後者。しかし、それは日本在来の天敵が喰い潰した。/
この秦河勝が、644年、つまり、蘇我氏を滅ぼす大化の改新(乙巳の変)の前年に、みずから遠く駿河の富士川まで攻め込んでいる。ここに、日本最古のカルト新興宗教教団ができて、騒乱を起こしたからだ。首領は、大生部(おおうべ)多(おお)。彼らは、神樹蚕(しんじゅさん)という蛾を常世神として祭り、貧者は富み、老者は若返る、と説いた。このブームは、周辺にまで瞬く間に広がっていった。
『日本書紀』は、重要なことをぼかしている。この神樹蚕は、野生ながら繭玉を作る。卵から生まれ、繭になって、そこから蛾として飛び立つ。それは、死と再生の象徴だった。それだけではない。この繭からワイルドシルク、つまり天然の絹糸が取れた。それは、莫大な富をもたらす。おまけに、そのサナギや繭クズは、高タンパク、高脂肪、高アミノ酸で、絶大な薬効があった。そして、なにより、この蛾が突然に増えたのは、その幼虫が外来の常緑樹「橘」を好物にしたから。
秦氏、ないし、中国系帰化人は、早くから三河から遠州富士川にかけて入植し、家畜化した養蚕と機織、そして「橘」の栽培をやっていたのではないか。それが、その「橘」を喰い荒す日本固有種の蛾を増やしてしまい、おまけにその蛾の繭で安価に絹糸を取れたのでは、中国系帰化人たちとしては、ほっておくわけにはいかなったのだろう。そして、この新宗教の新産業に、蘇我氏も一枚、かんでいたのかもしれない。だからこそ、翌年、大化の改新として、蘇我一族が一掃される。
しかし、改新をやり遂げた天智天皇は、親百済派だった。中国と新羅は百済を攻め、天智天皇は、中国新羅連合軍が日本に侵攻してくることを怖れて、近江に都を遷した。そして、672年の壬申の乱。これを支援したのは、伊勢以東の「海人」、中国系や新羅系の太平洋岸入植帰化人だった。一説には、斎宮(天皇の娘)はその人質であり、伊勢神宮の造営費も秦氏らが出したと言う。
さて、律令の官僚制に切り替えつつあった700年頃、屈原が官僚の鑑と詠った「今の橘」は、貴族たちの間で大人気だった。『万葉集』でも、71首もが「橘」を詠んでいる。壬申の乱で天武天皇の側近だった犬飼大伴の娘は宮中女官となり、藤原不比等の後妻となって、光明子を産む。そして、708年には、元明女天皇から「橘」姓を賜った。いわく、橘は、果物の最上、人の好むところ。枝は霜雪を凌ぎて繁り、葉は寒暑を経ても萎まず。珠玉とともに光を競い、金銀を交えていよいよ美しい、と。
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。