/日本固有の「橘」と、中国でいう「橘」は、まったく別のモノ。垂仁天皇が求め、伊勢神宮の資金源となり、『万葉集』に詠われ、伊井家を支えた「橘」は、後者。しかし、それは日本在来の天敵が喰い潰した。/
716年、光明子が聖武天皇の后、光明皇后になる。その異父兄の葛城王は、36年、臣籍に降りて、あえて母の「橘」姓を継ぎ、橘諸兄(もろえ)となる。おりしも、天然痘の流行で藤原家の連中が死去。40年には聖武天皇に、むりやり自分の本拠地、山城南部木津川市(奈良の県境)の恭仁京に遷都させる。756年に失脚するが、その後も、1574年に和歌山に有田みかんが植えられるまで、このあたりが関西みかんの一大生産地だった。
ところで、アメノヒボコ、そして多遅守の子孫の三宅氏は、900年頃、荘司として遠江の国、引佐の井伊谷に着任。そして、その屋敷の井戸のところに「橘」を植えた。これこそが、まちがいなく多遅守が「常世国」から持ち帰ったもの。その後、その末裔は伊井家となり、彦根に移っても、その家紋には橘が用いられた。
垂仁天皇に命じられて多遅守がマンダリンオレンジを手に入れたのは、距離からして、おそらく遠州、それも富士川に近いところだろう。『竹取物語』にもあるように、常世の国=不死の国=富士の国。死期の迫った持統天皇が季節も厳しい702年の晩秋~初冬に遠く浜名湖まで旅をしたのも、この不老不死の霊薬、マンダリンオレンジを得るためだったのかもしれない。だが、いま、秦河勝の屋敷を継いだ京都御所紫宸殿跡にも、橘諸兄の山城国木津川市にも、遠州三宅氏の井伊谷屋敷跡にも、当時の「今の橘」、マンダリンオレンジは残っていない。日本在来の神樹蚕(しんじゅさん)が喰い荒らしてしまったのだろうか。それとも、そんなものは、最初から話だけの幻の宝だったのか。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。