『勉強するのは何のため?~僕らの「答え」のつくり方』(苫野一徳/日本評論社)を読んでの感想です。
ほかにも「一般化のワナ」と表現し、本著では、いろいろな例が紹介されていますので、思考の訓練にもなりますね。例えば「学校の先生、塾の先生、どっちがいい?」など。
○“じゃあわたしたちは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」じゃなくて、いったいどう考えていけばいいのでしょうか。
考え方はシンプルです。あちらもこちらもできるだけ納得できる、第三のアイデアを考えよう。”
この文章、凄く素敵だと思います。「教育」カテゴリの本は、そもそも「教育」に関心の高い人が手にとってしまうのですが、この「考え方」は多くの方に伝えたい!
上の「一般化のワナ」の例であげた「学校の先生、塾の先生、どっちがいい?」という質問なんかまさにそうですよね。
学校の先生が(絶対的に)いいんだ!とか、塾の先生が(絶対的に)いいんだ!、とか、そんなの言えっこないです。
学校の先生の方がいい「場合」もありますし、塾の先生の方がいい「場合」もあります。アタリマエ、ですよね。そういう先生に巡り合うかどうかもさることながら、同じ先生でも「いい」という人と「余り…」と思う人といるでしょうし。
とはいえ、「学校の先生の方がいい!」と、断定的な表現をしてしまうことそのものだけで好ましくない、とも思いません。意見表明って「そんなもの」ですから。
自分が好ましくない、と思うのは
・断定的な表現を用いて「自分の意見以外は違う」というような「押し付け」を行う姿勢
・断定的な表現を見て、言っている本人が「絶対的に正しい」とはまず思っていないだろうというような事象に対し、「その意見は違う、なぜならばこういう場合が~」と、「こういう場合」として多くの人の同意を得そうな例を持ち出し反論を行う揚げ足とりの姿勢
というような「姿勢」がにじみ出る態度(や表現)です。
とくに後半のやり方は、自分が優位に立ちたい、という感情が先にある「卑怯」な姿勢だと思います。こういう姿勢が社会に蔓延らないよう、多くの人が、「卑怯」な姿勢が根本にある意見に安易にのっからないようにしたいものです。
閑話休題。「学校の先生、塾の先生、どっちがいい?」に対し、僕なら「第三の道」として、学校の先生と塾の先生の「いいところ」を見つけ、「学校の先生の中で、塾の先生の「いいところ」を持っている先生、っていい先生」(塾の先生で~の場合も同じ)という回答を見つけ出すと思いますね。
○“納得解を見つけよう”
上に述べた考え方が「納得解を見つける」という考え方になります。
「折り合いをつける」って表現にもつながるところはありますね。
絶対的な解なんて出ない事象なんてたくさんある。
そんなときに大事なのは、納得解を見つけることなんだ。
じゃあ、なるべく、自分の意見の対極にある意見を参考にしながら、どういう回答だったら多くの人が納得するかなあ…?
多様性に対する寛容な姿勢って、こういうことじゃないですかね。
そして、多様性に対する寛容な姿勢って、グローバル、グローバルと騒がれている今、グローバルへの意識が高い人ほど、身につけなければいけない態度じゃないですかね?
他、たーーーくさんのヒントが隠されている書籍。
『勉強するのは何のため?~僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)
読み終わったあと「なんかスッキリした!」という気分も味わえると思います。
※本記事は、(株)Z会勤務の筆者の個人的見解です。
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