企業向けにコンピュータ・ソフトウェアの販売/サポートを行う株式会社アシスト。今でこそ女性を戦力にする企業は多いが、アシストでは1980年代の創業間もないころから女性の活躍が目出つ。現在、そのトップが森沢久美子。社内の女性社員、そして営業マンが手本とする森沢のこだわりの「自分磨きの仕事術」とは。
■大抜擢をされてはみたものの…苦悩のはじまり
営業職に就いたあとは、森沢はその積極性とスピード感をもとに実績を上げていった。3年連続で全社の営業の中でトップの成績を上げ、営業チームを任され、そして営業部門を任された。全国の営業部門の責任者を経験したあと、36歳で関連会社の社長に就任する。
当時、IT業界はM&Aブームまっさかり。アシストでは製品ごとに「分社」というスタイルがとられていた。アシストが扱っていた製品のベンダーの吸収合併が続き、一番多くの製品数と売上を持っていた部門が、この「分社化」の流れの中で、ベンダーとの合弁で関連会社を設立したのだった。
入社以来、アシストの中で責任をまっとうしながらも自由に仕事をしてきた森沢だが、自分だけでなく社員のことを考える、本当の意味での管理者になっていったのはこの時からだと振り返る。「最初に社長として(合弁相手の)アメリカの会社に行って言われたのが、社員数を減らせ、ということだった。新卒の内定者は全員いらない、それから既存の社員も20%切れ、と。」
ビル・トッテンのもと、終身雇用を謳うアシストでそんなことができるはずはない。森沢は社長就任早々、アメリカで会議室に3日間缶詰にされながら、次々と説得にくる合弁先のアメリカ人幹部にNOを言い続け、最終的にはアシストのやり方でいくことを納得させた。帰国後、アシストのやり方を維持しつつ結果を出していったことは言うまでもない。
関連会社の社長として最後に森沢は大きな選択をした。5年ほどたってソフトウェア会社のオーナーは、アシストとの合弁ではなく、100%出資の子会社にしたいと提案した。そのため森沢に、アシストを辞めて日本法人だけでなくアジア太平用地域をすべて任せるとして、ポストと年収の両面で好条件を提示したのだが、その代わりに、アシストの社員をそっくりその子会社に譲渡する、というものだった。
一度任せられたら自由に采配を振ることができるというアシストのポリシーはここでも曲がることは無かった。ビル・トッテンは、最終判断を悩むことなく森沢に託したのだった。
森沢は月収が半分になっても入社を決めた当時のことを振り返りながら、アシストという会社を選択したことに誇りを感じた。最初の交渉経験から100%子会社になればすぐにリストラが始まることは間違いない。自身へのオファーがいかにすばらしいものでも、森沢はこれを受けるわけにはいかなかった。そして、アシストに残ることを選択した。そして合弁は解消されたが、それはアシストとしても大きな変化となるのであった。
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