「べき論」は虎の威を借る狐。

2010.03.21

ライフ・ソーシャル

「べき論」は虎の威を借る狐。

寺西 隆行
(株)Z会

「あなたの会社がやるべきでしょ?」 「あなたの部署がやるべきでしょ?」 そして 「あなたがやるべき仕事でしょ?」 …なんで「余計なお世話っ」って感じることが多いんだろう…。 なるほど、「べき論」を語る人は、自分が考えた意見ではないからですか…

「自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。」

===(引用終了)===

内田氏のように「経験的確信」と言えるほど力強くはありませんが、僕自身も「確かに」と思います。
自分自身が短い言葉で何か断定するときは、ほとんど自らが考え続けてきているものではない…
考え続けているものこそ、最も断定的な表現ができない(だから悔しい)…、と。

そして、他人から「~すべきだ!」とか「絶対~だ!」という表現を聞いたとき、その他人に対して、

「何か自分で背負っているものを感じないな…」
「言っている本人に、腹を括る責任感がほとんど感じられないのはどうしてだろう…?」

と思うことが多いのですが、これらの文章を読んでかなり腑に落ちました。

自分固有の意見ではない。
つまり、「当事者意識」がない人ほど、「べき論」や「絶対~」の表現にもっていく。
なるほど、確かに、と。

「べき論」や「絶対~」の方との対話は、大変やりにくいです。本当に譲ろうとしません。
そのことを、『日本辺境論』の中ではこう書かれています。

===(以下、引用)===

「断定的であることの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。先方の意見を全面的に受け容れるか、全面的に拒否するか、どちらかしかない。他人の受け売りをしている人間は、意見が合わない人と、両者の中ほどの、両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点というものを言う事ができない。主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。(主張するだけ~ないから、に傍点)」

「「虎の威を借る狐」に向かって、「すみません、ちょっと今日だけ虎縞じゃなくて、茶色になってもらえませんか」というようなネゴシエーションをすることは不可能です。狐は「自分ではないもの」を演じているわけですから、どこからどこまでが「虎」の「譲ることができない虎的本質」で、どこらあたりが「まあ、そのへんは交渉次第」であるのか、その境界線を判断できない。」

「よろしいですか、ある論点について、「賛成」にせよ、「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人だけしか私たちはネゴシエーションできません(自説~できません、まで傍点)。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので、「譲れない」のです。」

次のページ発した本人に当事者意識があるとき、その言葉には重みを含む

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寺西 隆行

寺西 隆行

(株)Z会

文部科学省広報戦略アドバイザー 経済産業省「未来の教室」教育・広報アドバイザー 三島市GIGAスクール推進アドバイザー 等

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