四半世紀にわたって、ラーメン界をリードしてきた「博多 一風堂」。その経営者・河原成美氏はどのような思いを込め、ラーメンを作り続けてきたのだろうか? 彼の人生を振り返りながら、ラーメンに対する熱い思いを紹介する。 [嶋田淑之,Business Media 誠]
ラーメン職人を「天職」と自覚できたとき
1人の人間が、天職に出会うというのは決して生易しいことではありません。人生の再出発をした27歳のときに、35歳(1987年)までに一生の仕事を見つけるという目標を立てたけれども、結局『これぞ我が天職』と自覚できたのは、35歳どころか45歳(1997年)のときなんですから」と苦笑する。
一風堂は1985年のオープン以来、試行錯誤を重ねながらも独創的なおいしさで、福岡で人気を集めていた。それに加えて、1994年の「新横浜ラーメン博物館」開館に当たっては、日本全国から選り抜かれた8店舗の1つとして出店し、続く1995年には東京のラーメン激戦区の恵比寿に出店し、両店ともに繁盛した。そこまで成功していたというのに、それでも天職という自覚までは持てなかったということだ。
では逆に1997年に一体何が、河原さんの心をそこまで突き動かしたのだろうか?
「当時、テレビ東京の人気番組だった『TVチャンピオン』で第2回全国ラーメン職人選手権が開催されることになって、僕も出場したんです。決勝戦のテーマは北海道の最南端・松前町に、味噌の札幌、醤油の旭川、塩の函館に続く新しいご当地ラーメンを創生するというもの。
僕を含めたラーメン職人3人(第1回大会優勝の「赤坂ラーメン」佐藤氏、「海ぞくらーめんふくすけ」永瀬氏、「博多一風堂」河原氏)が作ったものを松前町の人たちが食べて、おいしいと思ったものに投票して、一番たくさん得票できたラーメンを、観光の目玉にしていこうという趣旨でした。
でも僕は、なかなかイメージ通りのものを作ることができませんでした。氷点下という厳しい環境下、思い悩み、徹夜を重ね、精神的にも肉体的にも追い込まれていったんです。そんなとき地元の婦人部の皆さんが、九州から来た見ず知らずの僕のために献身的に手助けしてくれたんですよ。材料の調達から寝食のことまで。その親切、人情、温もりが心にしみましたね。
そのお陰で、どうにかイメージ通りのラーメンができた。結果、わずか7票差で僕は優勝できたんです。婦人部の方々も、我がことのように喜び泣いてくれました。僕はカッコ悪いと思いながらも、みんなの前で泣いてしまいました。『ありがとうございます、ありがとうございます』って、ただ、それだけを繰り返しました。『感謝』って、こういうことなんだ。僕はこの『ありがとう』を言うために、今まで飲食業を、そしてラーメンをやってきたんだって認識したんです。どこかにあると思って探し続けてきた天職は、実は自分の足元にあったんです」
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