未だにマスプロ教育批判が甚だしい。レクチャー形式では、人は考えるようにならない!との主張をする方々が非常に多い。しかし、本当にそうだろうか?レクチャーの語源はアリストテレスが始めたリュケイオンという教育機関を語源とし、約2000年もの間、続いている。それが本当に効果が薄いものなのだろうか?
「考える」というのはいったいどのような行為なのでしょうか?
そして、情報を頭に詰め込むこととどのような関係があるのでしょうか?
私なりの答えとしては、考えるとは「関係性を発見、検証する行為」だと思います。そして、関係性というものは、「情報を大量に得る」ことによってはじめて、自分で生み出せるようになるものだと思っています。
関係性というのは、因果関係、相関関係、大小関係、包含関係といったものがあります。
知見として、教えられるものは、関係性についてのルールを教えますよね?シンプルな例えで言うと、「これをやれば儲かる!」も関係性のルールです。
Aをすると、Bになる。これが積み重なったものが、人類の知見の積み重ねのようなものですね。それが体系化される時に、大小関係や包含関係、そして、相関関係が緻密に組み上げられていくんですね。
「Aをすると、Bになるけど、Bになると、Cが生じて、Aに影響を与える。」これは、いわゆるループ構造ですね。
「しかし、Cは同時にBに影響を与えるが、Aに与える影響よりは非常に小さいので、この要素間の関係においては、無視できる程度である。」
などの記述もありえますね・・・。
つまり、先に述べた4つの関係性に代表されるようないろいろな関係性が積み重なって、「構造」が組みあがるんです。
教えるというのは、この関係性のルール、大きく言えば「構造」を教えることです。大工さんだったら、「この種類の木材を削るときには、少し強めに削るほうが、家が長持ちする」とかでしょうか?ちょっといい加減な例ですけど。
関係性がそこにあるなら、人はいつか気づくかも知れません。
ただ、考えさせると時間がかかる。でも、そこで見出した関係性は強固だ、といったところでしょうか?そして、次の関係性を自分で生み出せるんだ!
だから、敢えて教えない。といった理屈が、レクチャー批判派の方々の意見でしょうか。
ただ、学会ってありますよね。あれは新しく得られた関係性に関する知見を発表する場ですよね。それに対し、いろんな学者が、「そうだ!」とか、「それは違う」とか、「それが本当なら、更にこうなるはずだ!」と言い合う場だと思うのですが、これ、レクチャー形式で発表しますよね。
この方法で、サイエンスは発達してきたんですよね?そして、西洋的サイエンス以外の体系は敗れ去って来たんですよね?
関係性について、大量の情報をまず得ないと、次の関係性の類推はなかなか難しいと思います。また、教える側が悩んだ問題で、教えられる側に同じ時間を求めるのでは、人類の知は発展しません。
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THOUGHT&INSIGHT株式会社 代表取締役
THOUGHT&INSIGHT株式会社、代表取締役。認定エグゼクティブコーチ。東京大学文学部卒。コンサルティング会社、専門商社、大学教員などを経て現職。