​中世中国道教の展開

画像: 老君山(外国人立入禁止の秘峰)

2024.12.09

ライフ・ソーシャル

​中世中国道教の展開

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/道教、と言っても、古代の素朴な自然法則崇拝から革命的宗教教団、そして国家行事祭祀まで、漢代末から三国南北朝、隋唐五代十国にかけて、大きく変化してきた。その底力は、いまも政府が恐れるほど強大だ。/

葛玄の親族の晋の葛洪(かつこう 283-343)は、葛玄の霊薬研究を引き継ぎ、仙人になるためのガイドブック『抱朴子(ほうぼくし)』を書いた。一族の子孫、葛巣甫(c400)は、道教と仏教を融合させた霊宝派を創った。彼らは道を人格化した霊宝道君を崇拝したが、それは、陰陽の組み換えにより、地獄、餓鬼、畜生、人間、神の五層に輪廻する道とされた。

しかし、大衆的な道教と仏教は寺院を武装し、反乱の危険性があったため、皇帝たちは彼らを恐れた。道士の寇謙之(こうけんし 365-448)は、これらを批判し、新天師道を創った。彼は老子を主神である太上老君として崇拝し、宗教税の徴収を禁止し、陰陽の交わりを口実とする乱交を排除し、方士たちの安っぽい魔術を根絶して、代わりに人々に厳しい規律を課した。こうして、新天師道は442年に北魏の国教に採用された。

これらに対抗して、南朝の梁の陶弘景(とうこうけい 456-536)は上清派を学び、仏教のような多神教として、さまざまな神々や仙人を体系化した。彼は、ここにおいて世界のアルケーを人格化した元始天尊を霊宝道君や太上老君よりも上に置き、これらを主神「三清」とした。


国教としての道教

隋唐の時代には官僚登用のために儒教に基づく科挙が導入されたが、道教の無為自然の影響を受けた志の低い儒教官僚たちは、孟子のような人為的な美辞麗句を守り、自分を豊かにするためだけに政治制度を悪用した。隋の創始者、楊堅(541-604)は、仏教寺院に生まれて仏教を広め、さらに唐の建国者、李淵(566-635)は、道教だけでなく仏教も廃止しようとした。

しかし、道教は人気があり、唐の皇族は老子末裔を自認し、皇室の儀式は儒教ではなく道教で執り行われ、首都長安の宮廷の道廟に住む道士たちが、皇帝にその健康だけでなく政治さえも助言し、科挙にも道教科が加えられた。かくして、道教は絶頂期を迎えた。社会の安定につれて、人々は健康や不老長寿を求め、錬金術の方士たちが怪しい霊薬を売りつけ、儒教官僚や皇帝たちさえも彼らに騙され、硫黄や水銀を含む霊薬によって命を落とした。

帝国道師、成玄英 (c750) は仏教にも精通し、道の形而上学、重玄(ちょうげん)派を立てた。現実は空であると考えるナーガルジュナの中観派の影響を受けて、彼は老子による道の定義、「世界と万物の根源、玄のまた玄」を解釈した。それによると、物事と世界の違いは、それぞれに名が与えられているか否かにすぎない。それゆえ、彼は不老不死や超能力ではなく、むしろ禅仏教のような心の自由への意識改革を求めた。

こうして、道教は仏教に対し、政治的にも理論的にも優位に立ち、皇帝たちに仏教弾圧を求めた。しかし、唐朝が衰退するにつれ、道教も弱体化した。五代十国時代(907~60年)の皇帝たちも道教に傾倒したが、王朝を延命することはできなかった。


純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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