/ようするに、欧米は「レヴァント」を支配していたい、というだけのこと。アレキサンダー大王、ローマ帝国、十字軍など、なんども侵略を繰り返しているが、そんな人工国家、橋頭堡植民地が、これまで百年もったためしが無い。/
当時、同地周辺は、名目上はオスマントルコ領内だったが、インドなどと同様、実質的にはたがいに対立する太守(徴税将軍)たちの勢力争いが繰り広げられており、エジプトはすでにインド貿易の中継拠点として英国が支配していた。1798年、これを奪取しようとナポレオン・フランス軍が遠征し、シリアまで進撃。名目は、なんとレヴァント周辺でのオスマントルコの権威回復の支援。ところが、現地太守たちの抵抗にあって敗退すると、むしろ英国艦隊と組んで、現地太守たちはもちろん、オスマン帝国軍まで攻撃。しかし、三年の支配の後、こんどは英国軍がオスマン帝国軍と組んで、フランスは撤退を余儀なくされる。
かくして、このわけのわからないどさくさで、英国がレヴァント(パレスチナ)の実質的な支配者となる一方、周辺のエジプトやシリアはアルバニア(マケドニア)人傭兵将軍アーガー(イスラム名アリー)が取って新たな王朝を開き、1830年から41年まで、エジプト・トルコ戦争が起きる。この対立に乗じて、フランスは、48年、あらためてスエズ運河の開削許可を取り付ける。また、トルコも、エジプトも、ヨーロッパのアジア・アフリカの帝国主義植民地拡大を恐れ、当時の日本と同様に近代化を急ぐが、そのため、かえって英国やフランスへの依存を強めてしまう。
1869年、スエズ運河が開通するが、エジプトは、近代化のための費用の借入金の返済に行き詰まり、その株式を英国に売却せざるをえなくなる。くわえて、現地アラブ人への給与が払えなくなり、82年に暴動が起きて、50人ほどのヨーロッパ人が死傷。これをきっかけに英国はエジプトへ侵攻して、太守を追放。以後、同地を植民地にしてしまう。こうして、レヴァント(パレスチナ)はもちろん、エジプト・シリア一帯も、英国の支配下に入った。
とはいえ、英国も、すでに新大陸の米国が独立してしまっており、世界中に拡がる広大な大帝国を支える資金源を持つわけもなく、世界中の余剰資金のかき集め、有望な投資先を探していたユダヤ系金融に依存していた。そうでなくとも、ナショナリズムの高まりの中で、居住国への愛国心も忠誠心も無く、平然と敵対国にでも移住したり投資したりするユダヤ人は、どこの国でも反発を買っており、ちょっとしたことで、ユダヤ人を襲撃するポグロム(殲滅)が頻発。これらに対し、ユダヤ人たちの間で、自分たちの国を創るシオニズム(パレスティナ帰還)の機運が高まった。
歴史
2023.06.06
2023.07.27
2023.09.30
2023.10.12
2023.11.05
2023.11.12
2024.02.23
2024.02.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。