/一時的にせよ、九州北部が40メートルも低かった(満潮時の海水位が安定して高かった)ことが続き、だれが作ったのか、その時代に梅ヶ丘に人工的な運河が開削され、博多湾と有明海で外洋船が通行できたことは否定はできまい。/
さて、梅ヶ丘運河だが、その東南側へ降りてすぐ、筑紫野市天山の高木神社を登ったところに「船繋石」がある。これは、秦の始皇帝時代、紀元前210年ころ、皇帝の命で不老不死の妙薬を求めて日本に来たという徐福の伝説にまつわる。彼は、数十隻もの大型船で三千名もの若い男女、さまざまな技術者を連れてやってきて、平原広沢の王となり、もはやだれも帰国することはなかった、という。梅ヶ丘運河を越えて目の前に現われた、干上がりつつある筑紫平野は、まさに平原広沢の名にふさわしい場所だっただろう。(佐賀県の筑後川河口近くの金立神社が徐福上陸地とも言われるが、有明海を大きく回ってきたにせよ、このあたりはどうやってもまだ当時は海で、話にムリがありすぎる。)
一方、筑紫平野の西寄りにある吉野ヶ里遺跡だが、ここは丘の上でも標高20メートルそこそこしかない。となると、ここは上記のような前史的古代遺跡と較べると、すでに土砂が沖積して平野が干上がりつつあったころの、ずっと新しい集落ということになる。『魏志倭人伝』の海路道程は、おそらくこのころにはすでに塞がってしまっており、間尺が合わない。とはいえ、ここはもともと、熱田神宮のように、北から伸びる半島の先端。九州を縦横に航海可能だった邪馬台国時代の遺跡があるとすれば、この北、肥前精神医療センターの西側にある、標高40メートルほどの小山だろう。実際、この麓には、いくつかの古墳が見つかっている。
邪馬台国探索ブームのきっかけとなる『まぼろしの邪馬台国』(1967)を書いた在野の研究者、宮崎康平もまた、「倭人伝を忠実に読めば読むほど、どうしても南へ水行しなければならない」とし、博多湾と有明海を繋ぐ二日市水道の存在を信じていた。ただし、彼は、それが火山灰その他で深く埋もれた、としていた。しかし、太宰府や宗像大社、宇佐八幡、祐徳稲荷などがいまも標高40メートルにある以上、二日市水道の部分にだけ40メートルの火山灰が積もって沈んだ、などという説にはムリがある。
また、梅ヶ丘運河は、645年の壬申の乱で知られる七世紀の天智天皇(中大兄皇子)が作った、という話もあるにはある。もともと博多湾側には500年頃に国造磐井が開いた水路があり、彼はこれを改修延長したという。だが、当時の国際情勢からすれば、663年の白村江の戦いで完敗し、防人を置くなど、九州防衛の徹底が急務で、博多湾を有明海と繋いで、海軍力に勝る敵に進撃の道を開くなどというのは、ありそうな話ではない。むしろ彼が破壊して塞いだ可能性の方が高いだろう。さらには、江戸時代に福岡黒田家が筑後平野側の米を城下に運び込むために、何度も運河開削を計画している。が、地峡西寄りのもっとも標高が低い湿地帯(現在のJR線あたりか)でも船を通すにはもはやすでに水量が足らず、実現には至らなかった。宮崎が発見したと喜んでいた遺構は、この江戸時代の試掘の名残だった可能性が高い。
いずれにせよ、40メートルも、九州北部が現状より低く、針摺地峡のほとんどが海没していた、などというのは、聞いたことが無い。しかし、一時的にせよ、九州北部が40メートルも低かった(満潮時の海水位が安定して高かった)ことが続き、だれが作ったのか、その時代に梅ヶ丘に人工的な運河が開削され、博多湾と有明海で外洋船が通行できたことは否定はできまい。この奇妙な謎を解かずに、邪馬台国の行程を論じても、埒があかない。
(地図作成は、国土地理院+Web等高線メーカー(埼玉大学谷研究室)による。)
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。