/壬申の乱の後、渡来人たちは三河に入植し、信濃の養蚕絹糸を織るようになった。しかし、702年、東海一帯は台風の甚大な被害を受け、すでに譲位していたにもかかわらず、持統上皇は、その見舞いのために、みずから遠く浜名湖まで訪れた。/
しかし、いったい何をしに行ったのか。これをややこしくしているのが、亡夫の天武天皇。679年新暦1月の筑紫大地震以後、各地で地震が頻発するようになり、684年旧暦2月ころから遷都を考え始め、信濃を調査。だが、折しも、同年旧暦10月14日(新暦11月26日)からの南海・東南海・東海連動の白鳳大地震。685年旧暦3月、浅間山の噴火。4月、白浜の温泉も枯れる。同年旧暦10月10日、信濃(松本市)に行宮を造らせるが、実際には行くこともなく、翌86年旧暦9月9日に崩御。この話のせいで、持統女上皇は、ほんとうは三河ではなく、信濃まで行こうとしていたのだ、などという説まで出てきている。
また一説には、壬申の乱に破れた弘文天皇(大友皇子)とその一族が岡崎に流れ着いたとか、幽閉されていたとかいう話もある。もちろん、当時のことだから自称末裔かもしれない。いずれにせよ、それなら、持統は継承早々に信濃なり、岡崎なりにに行ったのではないか。
『続日本紀』によれば、じつはこの702年の夏、太平洋沿岸に猛烈な台風が襲いかかり、沿岸部一体が飢饉となっていた。その被災民は、壬申の乱で天武方を支援した「海人(あま)」であり、その被害状況の視察と対策のために、遠方であっても、直接に壬申の乱を知る上皇みずからが赴く必要があった。
とくに重要だったのは、秦氏ほか渡来人入植地の見舞い。当時の三河の国衙は、豊川の西あたりにあった。しかし、渥美半島は伊勢神宮の神領で、その先、豊橋から奥三河(新城~天龍川最上流)まで、同じく壬申の乱で天武方を支援した秦氏の私領となり、また、大量に押し寄せ続ける半島や中国からの渡来人の入植地とされた。豊橋、というのも、もともとは、トヨハタ、だったのだろう。698年には、豊橋に羽田(はだ)八幡宮が創建されている。
彼らの重要な産業は、製糸と機織だった。天然蚕と絹糸は縄文自体から日本にも存在するが、渡来人はこれを人工的に養殖増産する技術を持っていた。つまり、伊那谷で養蚕し、その蚕玉を奥三河で「赤引糸」に加工、浜名湖畔の三ヶ日などで織られた。その絹織物は、浜名湖から水運で外海に出て、渥美半島南岸沿いに海を渡り、伊勢にまで届けられた。だが、日本の新たな巨大資金源となるこの「シルクロード」が、台風の被害で危機にあったのだ。
しかし、「赤引糸」とは何か。赤みがかった、ただ純粋な、など言われているが、かっては実際に真っ赤だった可能性が高い。吉野のあたりでは、不老不死の霊薬とも言われた真っ赤な硫化水銀、つまり「辰砂」が取れた。その赤こそが、壬申の乱の天武方の印であり、伊勢神宮の巫女の赤袴はもちろん、後世においても、信州上田の真田家の赤揃え、浜名引佐の伊井家の赤揃えなどに見られる。その後は安価で簡便な植物の茜(アカネ)を染料に使うことが主流になったが、それはもとより辰砂染めを模したものであり、生糸というタンパク質の動物性繊維を永遠絶対化(ミイラ化)するには、辰砂染めであってこそ意味があった。
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2017.02.25
2009.11.12
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。