/壬申の乱の後、渡来人たちは三河に入植し、信濃の養蚕絹糸を織るようになった。しかし、702年、東海一帯は台風の甚大な被害を受け、すでに譲位していたにもかかわらず、持統上皇は、その見舞いのために、みずから遠く浜名湖まで訪れた。/
672年の壬申の乱で天皇制を確立した第40代天武天皇だったが、686年、つまり14年足らずで崩御。跡を継いだのが、后の第41代持統女天皇(41歳、645~即位686~譲位697~703)。58歳で亡くなるまでの16年間で45回以上も、つまり平均年三回も旅行に出ている。657年、わずか12歳のときに結婚させられたのだから、ダンナが死んで、まだ41歳で、いろいろせいせいした、というところもあるだろうが、かりにも天皇だ。都は、飛鳥の浄御原宮。やたら留守にして、いったい何をしてたのやら。
もともとは、ほんのつなぎで、実子の草壁皇子(662~89)が継ぐことが予定されていた。ところが、これが、89年、27歳で死去。この前後から、持統女天皇は、かつて夫と即位前に住んでいた吉野宮へ、年に三度も、四度も、かなり頻繁に戻るようになる。とはいえ、滞在は、さほど長くは無い。ほんの数日、長くても七日ていど。一説に、修験者の役(えん)小角(おづぬ)(634~701)と会って、呪術の相談を受けていたのではないか、とも言われるが、まったくの想像。
かと思うと、690年と701年に、二度も、遠く紀伊、和歌山市にも出かけている。しかし、『日本書紀』は譲位までで、その後、太上天皇となってからは『続(しょく)日本紀(ぎ)』の孫の第42代文武天皇(683~即位697~707)の動向とごっちゃになっていて、よくわからない。しかし、ちょうど時代が『万葉集』と重なり、行幸にも、柿本人麻呂(c660~724)ら、歌人が同行したので、旅先の歌がけっこう残っている。それによれば、この紀伊行きは、658年に和歌山市の南、藤白坂で処刑された有馬皇子(640~58)を追悼するため、とされている。
それ以上に遠大だったのが、702年の秋、死の直前の三河行き。旧暦9月19日に伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河に行宮の造営を命じ、10月10日に出て、11月25日に帰郷。その間、10月14日に文武天皇が律令制を諸国に発令。そして、12月13日には持統女上皇が昏睡、22日に死去。このときも、歌人たちが同行していて、長奥麻呂「引馬野に匂う榛原入り乱れ、衣匂わせ、旅のしるしに」と、高市黒人「いずくにか、船(ふな)泊(は)てすらむ、安礼の崎、漕ぎ廻(た)み行きし、棚無し小舟(たなしおぶね)」の二首が『万葉集』にある。この比定地が問題で、三河という以上、せいぜい豊川のあたりまでだろう、という説がある一方、国学者の賀茂真淵らは、「引馬野」とある以上、浜松市中区曳馬に違いない、つまり、持統上皇は浜名湖を一周して帰ったのだ、という説を主張した。
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2017.02.25
2009.11.12
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。