/アマテラスは、出雲神話にしても、山人(ヤマト)皇史にしても、崇拝の史実が無く、記紀の中で浮いている。これを持ち込んだのは、伊勢湾の海人(アマ)の影響を強く受け、壬申の乱で政権を執り、記紀を作らせた天武・持統。その背景には、前代未聞の白鳳地震の大津波災害があった。/
当時、天変地異は、為政者に天が怒りを示したもの。天武天皇は以前から広瀬(大和川合流点)の大忌神(トヨウケビメ)、龍田(大和川出口)の風神(シナ(息長)つヒコ)を祭っていたが、さらに気弱になったのか、翌年春には諸国の家ごとに仏舎を作って仏像とお経を具え、礼拝供養しろ、と言い出す。しかし、686年1月14日には失火で難波宮が焼失。4月27日、タキ皇女・山背(やましろ)姫王・石川夫人(おおとじ)を伊勢神宮に遣わした。
ここで初めて明確に「伊勢神宮」が登場する。これ以前には、第12代景行天皇40年に、ヤマトタケルが東征の前に伊勢神宮に寄って草薙剣を得た、というのと、第31代用明天皇が即位してスカテ皇女に伊勢神宮を拝しさせ、日神祀りを奉じさせた、というのがあるが、ヤマトタケル自体が神話的英雄で実在性が疑わしく、スカテ皇女の話も、トホ川辺望拝と同じく、拝したというだけで、行ったかどうか、わからない。これに対し、ここでは、伊勢神宮に遣わした、と、はっきり書かかれている。
ところが、このときいまの伊勢神宮が実在したというのは、無理があるのだ。というのも、外宮はもちろん内宮も、海抜は現在でも10メートルそこそこしかない。猿投神社伝承養老元年(717年)古地図に合わせると、この時代の伊勢湾は、通常でもおよそ海進5メートルだったことがわかる。(下図は、その後の紀伊半島の隆起5メートルを勘案して海進10メートルで設定。)ここに684年、数十メートル級の白鳳地震大津波を喰らったのだから、この一帯は、見渡す限り、町も、木も、なにもかもが引き浚らわれた禿げ野原だったはず。
伊勢内宮は、いまでこそ鬱蒼とした原生林のようだが、九州の屋久杉は樹齢2170年なのに対し、神宮杉は最古でもせいぜい八百年。それは、あのあたりが過去に何度も大津波を喰らっているから。タキ皇女たち三名を伊勢に遣わしたのも、この大災害の被災地の様子を確認し、後に伊勢神宮を建てる場所を探索するため。だから、存在しない伊勢神宮に逗留することも無く、往復十日のみで5月9日に帰京。
しかし、5月24日、いよいよ天皇本人が発熱。川原寺で薬師経を唱えるも治らず、各地の寺を掃除させ、大赦で囚人全員を解き放つも変わらず、6月10日に占うと、668年に新羅僧道行が熱田神宮から盗んだはずのヤマトタケル草薙剣が宮中にあって、これが祟っていることがわかった。それで、その日のうちに、これを熱田神宮に送り返した。
関連記事
2017.02.25
2023.06.06
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。