/中江藤樹の説く「孝」は、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。彼の祖父はキリシタン掃討の先頭にいたが、孫の藤樹はむしろそのせいでかえってキリシタンになったのではないか。/
中江藤樹(1608~48)、と言うと、日本史でも、倫理学でも、「近江聖人」、江戸時代初期の思想家、日本の陽明学の嚆矢、「孝」を重視した、で、終わってしまっている。これは、歴史の反動でもあろう。戦前はやたら『修身』の授業で教えられた。と言っても、なんだか立派な逸話を並べ立てただけ。いったいどんな思想家だったのか、これではわかるまい。
戦国時代、美濃の斉藤龍興の配下に加藤光泰という武人がいたが、1567年、信長に龍興の稲葉山城(岐阜城)を落とされて浪々の身となり、これを敵方の秀吉が拾ってやった。以後、秀吉とともに軍功を挙げ、近江高島城主(琵琶湖西岸)ともなる。この城下に中江吉長という豪農がおり、武士になって、光泰、秀吉とともに破格の出世。光泰は朝鮮出兵で病死するも、その子、貞泰は、関ケ原の戦いのさなかに徳川方に寝返って、かろうじて黒野(現岐阜大周辺)4万石を安堵。1610年には米子6万石藩主に。大阪の陣で活躍した後、1617年には大洲(愛媛県東部)同6万石に移封。これとともに、中江吉長も、150石取り(中級武士)として同行。このとき、吉長は、次男に近江の広大な田畑すべてを相続させる一方、長男の子を自分の養子にして連れていった。これが、9歳の中江藤樹。
中江吉長は、読み書きも満足にできない粗野な人物ながら、武芸には優れ、大洲藩の飛び地、柳原領(愛媛県北部、松山市の北)の郡代になった。20年、大洲に戻るも、22年、吉長は亡くなり、藤樹(14歳)が家督を継ぐ。23年、藩主貞泰が死去、長男泰興が相続するも、次男直泰が1万石の新谷藩(大洲のすぐ東)を藩内に起こし、お家騒動が続く。加えて、25年には藤樹の実父も死去。実母を呼び寄せようとしたが拒まれ、また、新谷藩出向を命ぜられると、実母心配を理由に、34年、26歳で脱藩帰郷。
その後、藤樹は、酒屋金貸を始めた。当時、村人は年に一度の収穫時以外は現金が無く、生活物資すべてをツケで買わせていただくしかなかった。ところが、杓子定規の藤樹は、手堅いというか、融通がきかないというか、その日、一日、きちんと働いた村人にしか、新たな借金を増してまで、ものを売ってやらない。にもかかわらず、そういう本人は、一日中、ごろごろと寝てばかり。おいおい、きちんとしてるって、どういうことよ、道学先生? ということで、ここにいつの間にか私塾ができた。
だが、藤樹も、平易な言葉で考えるうちに、角が取れ、丸くなっていった。村人に語った教えをまとめたして書いたのが、『翁問答』(1640)。そして、この上巻の終わりの部分が、とくに『文武問答』と呼ばれ、しばしば武士道の第一書として挙げられる。翁と言っても、まだ32歳。これに書かれているのは、「孝」を重んじる教えと、学問論。朱子学の発展だ、いや陽明学の影響だ、と、後世にいろいろ喧しいが、藤樹は、この時期、もはや朱子学の博学主義にはあきらかに批判的。かといって、陽明学者らしく、自分自身でなにか行動を起こすわけでもない。だいいち、言葉遣いや話の形式は、伝統的なものを踏まえているが、内容が、どうみても朱子学でも、陽明学でもない。「孝」と言っても、いわゆる親孝行とは似ても似つかない。
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。