中江藤樹:武士道は隠れキリシタンが作った?

画像: 藤樹書院

2016.06.11

開発秘話

中江藤樹:武士道は隠れキリシタンが作った?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/中江藤樹の説く「孝」は、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。彼の祖父はキリシタン掃討の先頭にいたが、孫の藤樹はむしろそのせいでかえってキリシタンになったのではないか。/


 祖父吉長が郡代を務めた柳原領に三穂神社がある。勧進は建武新政(1333)の頃ということになっているが、実際に社殿が建てられたのは寛政年間、つまり江戸中期。吉長がいたころは、まだ何もなかった、もしくは、ここが郡代屋敷だったのかもしれない。中に吉長が建てた中江家の小祠が残っている。ここから、今治街道を北上し、川を越えて右に曲がって行ったところに、弥右衛門堂がある。和田弥右衛門が、キリシタンとして処刑された場所。頭を残して土に埋められ、容易に切れない竹製のノコギリで首をジワリジワリと切り殺された、という。


 もともと伊予(愛媛県)は、村上水軍の来島一族が支配しており、1585年には、宣教師ガスバアケルシエが許可を得て柳原に司祭館を建てている。和田弥右衛門とともに殉教したのは、和田市兵衛、来島徳右衛門。後者は、来島一族だろう。村上水軍というと海賊で粗野なイメージがあるかもしれないが、もともと村上源氏の末裔ということで、連歌会を開くなど、高尚な貴族趣味を持っていた。フロイス『日本史』(第61章)によれば、当主の来島通総(1561~97)は、黒田官兵衛とともに教義を学び、下関で洗礼を受けた、とされる。しかし、その後を継いだ来島長親は、関ケ原の戦いで豊臣方について領地没収、かろうじて森1万4石(大分県玖珠町)を安堵されるも、ここはひどい山奥で、水軍の力を失う。


 加藤貞泰が1617年に伊予に移されたのも、関ケ原の戦い、大阪の陣の後の豊臣残党掃討のため。幕藩体制に取り込まれ損ねた浪人武士はいまだ巷に溢れかえっており、ポルトガル海軍の支援を仰ぎつつ、キリシタン国家建設をめざし、九州に集結して大反乱を起こすのではないか、と懸念されていた。幕府はすでに1612年に直轄地禁教令を発布し、13年、これを全国に拡大していたが、実際は野放しのままだった。しかし、19年、将軍秀忠は、改めて禁教令を出し、実際に京都六条河原でキリシタン52名を火刑にした。和田弥右衛門らの殉教も、おそらくこの年のことであり、捕縛処刑したのは、武芸蛮勇を誇る郡代中江吉長その人だったのではないか。


 20年、中江吉長は大洲に呼び戻され、伴天連追放令が出ているにもかかわらず、21年にはジョバンニ・バプティスタ・ポルロという宣教師が大洲に来ている。弥右衛門処刑事件の始末のためであろう。22年の祖父の亡くなる直前、家老がやってきて、親しく祖父と語らっていたが、凡庸な雑談ばかりで、がっかりした、などと、14歳の藤樹は述べているが、家老の懸念は、むしろ跡継の藤樹のことだったのではないか。実際、杓子定規で小生意気なガリベン小僧の藤樹が、上司や同僚とうまくやっていけていたとはとうてい思われない。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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