/中江藤樹の説く「孝」は、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。彼の祖父はキリシタン掃討の先頭にいたが、孫の藤樹はむしろそのせいでかえってキリシタンになったのではないか。/
ここで彼が根本に立てるのは、「太虚」、万物未生以前の混沌たる自然。別の本(『原人』(1638))では、「皇上帝」と呼んでいる。つまり、これは、機械論的な朱子学とは違って、人格的な神。そして、その皇上帝の「恩」で万物や人間が生じている、とされる。だから、その報恩の「孝」こそが自然と人間の道だ、と言う。彼によれば、もとより人間は皇上帝の「分身変化」であり、この皇上帝の本体である「孝」を顕現(「明明徳」)させることこそ、身を立てることなのである。ただし、ここで重要なのは、「孝」=報恩=継慈、という藤樹独自の理論展開。恩に報いる、というのは、親に直接に仕えることがすべてではなく、むしろ、自分の子に、親の恩を「慈」として継ぎ伝えてことこそ、親への報恩、「孝」になる、とする。
これが、どうして武士道になるか、と言うと、彼によれば、人間は、生物的に親の恩の下に生まれ、社会的に君の恩の下に生きるのだから、君にもまた親に等しく報恩の「孝」を尽くすべきだ、とされる。ここにおいて、「孝」は、内実の「仁」であり、形式の「義」であり、仁は文として行われ、義は武として行われる。文は武によって実現し、武は文のために実行するのであるから、文武は表裏一体。ただし、礼楽書数は文の枝葉末節の芸、軍射御兵は武の枝葉末節の芸。仁義の根本とともに本末兼ね備えてこその文武両道。これこそが、皇上帝の「孝」の顕現であり、人間の人間としての務め。
この話、どう見ても、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。しかし、主君に無断で勝手に脱藩し、自分で武士を捨てた藤樹が、武士道だ、主君への忠義だ、とは、片腹痛い。生業を言えば、すでに金貸のくせに、カネの話は、まったく出て来もしない。町人倫理は、次の時代の石田梅岩(1685~1744)を待たなければならない。
そもそも、孝行で知られる藤樹の経歴そのものに、いくつもの奇妙なところがある。長男の実父中江吉次は、なぜ相続から外され、藤樹が祖父吉長の養子になったのか。脱藩した藤樹が身一つで戻って郷里に酒屋金貸を始めるが、元手はどうしたのか。開いた私塾には78名の弟子が記録されているが、うち20名は伊予(大洲藩・松山藩など)の出。寺請証文など、移動が厳しく制限されてはじめていた時代に、彼らはいかにして脱藩者の下を訪れることができたのか。
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。