/中江藤樹の説く「孝」は、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。彼の祖父はキリシタン掃討の先頭にいたが、孫の藤樹はむしろそのせいでかえってキリシタンになったのではないか。/
その欝々とした日々の中のことであったのだろうか、フランス国立東洋語学校教授レオン・パジェスの『Histoire de la religion chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'à 1651 』(1867、『日本切支丹宗門史』)によれば、「四国には一人の異教徒がいて、彼は支那哲学とイエズス・キリストの教とは同じだと信じ、ずいぶん前から支那の賢人の道を守って来たのであった。彼は一伝道士に会って、己が誤りを知り、聖なる洗礼を受け、以来優れたキリシタンとして暮らした」とされている(1626年の項)。内村鑑三が中江藤樹を代表的日本人の一人として挙げたのも、この伝承を知ってのことであろうし、また、明治時代の東京帝大教授(宗教学)姉崎正治や、戦前の社会事業家の賀川豊彦、戦後に桜美林学園を創立した清水安三なども、この回心受洗者こそ中江藤樹だ、と断言している。実際、1619年以後に宣教師に会い、ひそかに洗礼を受けることができた四国の朱子学者など、藤樹のほかに考えることは難しい。
1630年代半ばにもなると、九州キリシタン反乱はいよいよ現実味を帯びてきていた。過酷な弾圧で沈静化を図っても、かえって火に油を注ぐ状況だった。大洲藩主加藤泰興も、九州出陣に備え、新たな鎧をこしらえている。藤樹の新谷藩への左遷も、この事態を踏まえてのことだったのかもしれない。無断での逐電は、敵前逃亡と同じ。当然、死刑だ。実母心配などと言っても、藩を抜ける以上、それは叶いえない。にもかかわらず、藤樹が34年に脱藩したのは、キリシタンと戦うことより、殺されることを選んだからだろうか。
ところが、かつてガキの藤樹に凡庸と評された家老の佃小左衛門、しれっと、それっきり。逐電したのに追っ手も出さず、居所もわかっていながら問い合わせすらしない。それどころか、伊予の連中が20名もかってに近江の塾に通っているのに、ほったらかし。まさか彼までキリシタンだったというわけではあるまい。むしろ、この家老の方こそ、聞を得て、難を避け、藩を守る賢明な武士道の知恵があったように思える。
果たして37年、島原の乱は起こった。だが、大洲藩は、これに巻き込まれることなく、その後も幕府の信を増し、明治まで無事に生き残った。一方、中江藤樹の思想は、東京帝大学長(哲学者)井上哲次郎によって、その皇上帝のところを天皇と書き換えられ、天皇の明徳のために戦う日本人の武士道、として広く軍国主義教育に利用されるところとなってしまった。
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。