2009年6月末に封切られた「エヴァンゲリヲン新劇場版・破」を観た。誠に私的な感想であるが、傑作である。 テレビで見ていた主人公である少年・碇シンジの体温が、今回の劇場作品では、2度ほど上がっている。血が通うことによって、「エヴァンゲリヲン」は、日本の正統派アニメとして再評価される予感がする。
SFではなく、日本神話としてのエヴァンゲリヲン。
日本を創った神様達が活躍する古事記をご存じだろうか。
その内容は、驚愕するものが多い。
例えば、天照大御神が、天の岩谷戸に籠もった理由。
弟である須佐之男命(すさのおのみこと)の傍若無人なふるまいに怒ったからなのだが・・・。その蛮行とは、姉である大御神の食堂にうんちをまいたり。機織り小屋に、皮をはいだ馬を投げ込んだり。機織女の性器を突いて殺したり。半端じゃない。今なら放送禁止である。
日本は、どうして生まれたのか。
創造主である、神とは、どういうものか。
日本神話には、それが書かれている。
しかし、その内容とは、上記のように、不条理で、非合理で、凶暴で・・・とんでもない。物事の起源を辿るとは、このような混沌に分け入ることだ。
人間が共通に持っている無意識を引きずり出して、答えの出ないものに、答えを出そうとすることだ。・・・という意味において、「エヴァンゲリヲン」は、サイエンスでもなく、フィクションでもなく、まさしく日本神話である。
エヴァは、「人間のあるまじき力」を可視化したもの。
日本神話に出てくる神たちと同じように、私たちは、不条理で、非合理な、凶暴性を無意識に孕んでいる。
それは、理性で語れば「人間のカタチをしていないもの=あるまじき力」である。しかし、その「人間のカタチをしていない」ものを持っているからこそ、人間である。
それを可視化しているのが、エヴァンゲリヲンというロボットである。だから、使途を凶暴に喰らう姿に、私たちの内なる凶暴性が目覚める。
ロボットというカタチをしているのに、エヴァンゲリヲンから血が吹き出ることを不思議に感じない。むしろ、その自傷行為を、実は、心の奥では、期待したりもしている。
このような文脈で読むと・・・たくさんのエヴァ評論にあるように、「エヴァンゲリヲン」は、核兵器そのものであり、人間が作りし「エヴァ」と、人間が作りし「使徒」との終わらない戦いは、「人間が始めし戦争」そのものである。
さしずめ、自分より大きなものに振り回される無力な少年シンジは、我々、日本というところか・・・。
日本再生の物語へ。
「エヴァンゲリヲン」では、執拗なほどに、日本が描かれている。
第三新東京市は、昭和の街そのものであるし、年中泣いている蝉の声には、あの懐かしい日本の夏休みがある。シンジ達が通う学校での物語は、一昔前の青春ドラマ。
全編に、日本の原風景が描かれている。原爆に焼き尽くされ、アメリカやヨーロッパから入ってきた文化に浸食をされて消えた街が、「エヴァンゲリヲン」の舞台なのである。
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有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス 代表取締役
昭和30年代後半、近江商人発祥の地で産まれる。立命館大学経済学部を卒業後、大手プロダクションへ入社。1994年に、企画会社ペーパーカンパニーを設立する。その後、年間150本近い企画書を夜な夜な書く生活を続けるうちに覚醒。たくさんの広告代理店やたくさんの企業の皆様と酔狂な関係を築き、皆様のお陰を持ちまして、現在に至る。そんな「全身企画屋」である。