/西行や長明、兼好、そして世阿弥、利休、芭蕉などの生涯とその時代背景についても、周辺史料や文章以外の史実の掘り起こしによって、実証的に大きく書き直しが進んできた。従来、彼らは、みずから俗世を離れ、遠くから淡々と無常観を語っている、と思われていた。ところが、彼らの実情は、数奇な世捨て人どころか、巷間のただ中にあって世捨て人を装う珍妙な俗物だった。彼らは僧形を取り、仏道を語りながら、みずからは仏門修行そのものに励むことは無かった。/
むしろ南朝皇族の生まれと目される一休宗純(1394~1481)は、京内の臨済宗大徳寺にあって、体制国教化した禅宗を批判し、末法無戒とばかりに女犯男色、飲酒肉食を辞さず、禅宗最盛期唐代の風狂を体現して自由奔放に生きた。とはいえ、若いときには瀬田川で入水自殺未遂事件を起こしたりもしている。『一休道歌』に曰く、「なにごとも夢まぼろしと悟りては 実(うつつ)無き世の棲まひなりけり」と。無戒もなにも、世に実が無い。また曰く、「明日ありと思う心にほだされて 今日も空しく日を送りけり」。明日を思う心はあっても、その心のみで、今日は結局、空虚のまま。その明日とは、来世の浄土にほかならない。「極楽は十万億土はるかなり とても行かれぬ草鞋一足」。つまり往生さえも夢まぼろしと喝破する徹底したニヒリズム。
一休は漢詩も得意としたが、その格調高い文体に反して、内容的にはふざけたものが少なくない。しかし、三管領四職の内紛と対立で応仁の乱の気配が忍び寄る1460年八月末日には、被災した京の夜の町で浮かれ騒ぐ宴会の歌声を聞いて、こんな七言絶句を詠んでいる。「大風洪水万民憂 歌舞管弦誰夜遊 法有興衰劫増減 任他明月下西楼」。法も衰え、災いも増す世にあって、早々に朔月は西に隠れ、いまが闇夜なのは問うまでも無い。つまり、彼は、いまがもはや時間の無い永遠不変の末法にあると見ていた。
とはいえ、一休は、一世代も年下ながら同じく無戒奔放な浄土真宗の蓮如(1415~99)とも心を通じ、親しく交わった。このころ浄土真宗は関東の高田派が中心となっており、彼の大谷本願寺(現知恩院内)は、天台宗系の末寺でしかなかった。しかし、彼は荒びつつある京都で熱心に他力本願の真宗念仏を説き、急速に信徒を増やす。これを快く思わない本山天台宗延暦寺は、1465年、僧兵を使って襲撃。寺は潰され、蓮如一行は越前吉崎に逃れる。
しかし、67年に起きた応仁の乱は、その後、加賀富樫家にも及んだ。兄の政親は細川東軍に与したが、弟の幸千代は山名西軍を推し、これに真宗高田派がついたため、蓮如らはやむなく政親側に付くが、地元門徒(一向衆(宗))は蓮如の命と偽って武装一揆を展開。蓮如は74年には吉崎を去り、83年に山科本願寺を建てる。しかし、一向衆の支援で勝った富樫政親は、そのあまりの勢力に恐れをなし、この蓮如不在の間隙に弾圧に転じたため、88年、一向衆が蜂起。一向一揆で政親を自害に追いやる。こんなことが、蓮如の教えだったのだろうか。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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