高齢期の幸福にとって、健康より大切なもの。
出来上がった本は、「中楽坊」の共用部に数十冊置かれました。すぐに本の全てが入居者の方々の手に取られ、読まれているそうです。今、マンション内はご主人の作品の感想や、ご夫妻の生前を偲ぶ話題で持ちきりなのではと想像します。
あれだけ仲が良かったのに、ご主人がどうして奥さまの目に触れないようなところに多くの作品を置いていたのか、という点に興味は湧きますが、それよりもこのエピソードは、高齢期の暮らしにおいて、心の支えとなる配偶者や友人などとのつながりや交流がいかに重要かということを教えてくれます。高齢期の幸福にとって、健康はもちろん大事だけれども、もっと大切なのは人とのつながりを失わないことだということが分かります。
ご主人の短歌を一部紹介しましょう(※1)。
「《来なくてもいいよ》とメール打ち終えて早やきみを待つ午後の空白」
「この命果てる時まできみのため二十歳の誓い熱く秘めたり」
「支え合い生きる手と手を離すまい誰はばからず桜(はな)の道行く」
「きみの詩集『今日の奇跡』のやさしさに生きる歓び幾滴(いくしずく)落つ」
健康を損ない、入院生活が長くなったとき、一緒には暮らせなくても奥さまの存在がどれくらい心の支えとなったかがよく分かります。そして、これらの歌からは幸福感さえ漂ってきます。
亡くなったご主人が残した作品を本にしたのは、最も身近な存在であった奥さまであり、さらにそれを引き継いだ「中楽坊」に住む人や、古くからの友人の方々でした。そこには、年を重ね、人生の残り時間が少なくなっていくという、似た状況に置かれた者同士の連帯感のようなものがあったのではないかと想像します。そして、そんな連帯感の中で人生の最終盤を生きたお二人は、とても幸せだったのではないかと思います。
人は、年を取れば誰しも失うものが増えてきます。高齢期とは、喪失と付き合う期間です。そんな中、最も失ってはいけないのは人間関係、つながりや交流。このご夫婦は、そんな高齢期における幸福の本質を教えてくれています。
※1:「三浦勉作品集1~短歌、詩、旅行記」(竹林館)より
高齢社会
2024.09.19
2024.11.06
2024.12.23
2025.01.20
2025.02.25
2025.04.14
2025.06.02
2025.07.29
2025.09.17
NPO法人・老いの工学研究所 理事長
高齢期の心身の健康や幸福感に関する研究者。暮らす環境や生活スタイルに焦点を当て、単なる体の健康だけでなく、暮らし全体、人生全体という広い視野から、ポジティブになれるたくさんのエビデンスとともに、高齢者にエールを送る講演を行っています。
