介護の手厚さを、”終の棲家”選びの基準にしてはいけない理由。
●“終の棲家”を定めるのは、ごく当然のこと
年を取れば、周辺環境もライフスタイルも変化し、身体機能も衰えてきます。そうすると、現役時代には何も感じなかったことが不便になったり、不安になったり、恐れや孤独や危険を感じたりすることが増えてきます。
従って、高齢期にふさわしい環境を改めて考え、“終の棲家”を定めるというのは大事なことだと思います。それは、家族が増えたら部屋数の多い家を望み、仕事場に通うために駅の近くを望み、子どものことを考えて学区などを考慮したのと同じく、人生のいろいろな段階で住まいを変え、環境を整えるのはごく当然かつ賢明なことです。
しかし、“終の棲家”探しのポイントが、「要介護になったら面倒を見てくれるか」でいいのでしょうか。
松尾芭蕉は宗匠として、東京・日本橋を拠点に多くの俳人や弟子たちと交流しながら暮らしていました。しかし晩年、深川へ転居します。何不自由ない暮らしをしている著名な俳人は、なぜ街中から離れ、質素な家での1人暮らしを選んだのでしょうか。諸説ありますが、本当に自分らしく生きる、自分がやりたいことをやるためではなかったかと思います。人が寄ってきてチヤホヤされ、指導を含めて多くの人たちと関わり合いを持たなくてはならないような日常から離れ、自分らしく創作に生きるための環境をつくりたかったのでしょう。
介護が必要な状態になるかどうか、その程度がどれくらいになるかは全く予見不可能であり、かつどこにいても、そうなればそれなりにサービスは受けられるので(それが「地域包括ケア」という言葉の意味です)、介護が手厚いかどうかは大した問題ではありません。それよりも、最後まで自分らしく、楽しく、イキイキと暮らせるのはどこかという基準で検討すべきだろうと思います。
自分にとっての芭蕉庵はどこか。“終の棲家”探しは、そうありたいものです。
高齢社会
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NPO法人・老いの工学研究所 理事長
高齢期の心身の健康や幸福感に関する研究者。暮らす環境や生活スタイルに焦点を当て、単なる体の健康だけでなく、暮らし全体、人生全体という広い視野から、ポジティブになれるたくさんのエビデンスとともに、高齢者にエールを送る講演を行っています。
