/北里は、ベルリン大学で画期的な血清抗体療法を開発したが、帰国の目途が立たない。というのも、細菌学の権威、緒方正規が発見したと自負する「脚気菌」の存在を否定したからだ。官学派に「忘恩の徒」と罵られ、福沢が私財を投じて彼のために建てた伝染病研究所も取り上げられてしまう。だが、彼はそれでも不撓不屈の現場の熱と誠を貫いた。/
君、人に熱と誠があれば、何事でも達成するよ。よく世の中が行き詰まったと言う人があるが、これは大いなる誤解である。世の中は決して行き詰まらぬ。もし行き詰まったものがあるならば、これは熱と誠が無いからである。つまり行き詰まりは本人自身で、世の中はけっして行き詰まるものではない。
来年、1000円札の顔になる北里柴三郎は、こう言って、新たに留学してきた後輩(荒木寅三郎、後の京都帝大総長)を励ました。北里はすでに留学6年目。ベルリン大学のコッホの下で破傷風菌を研究し、画期的な血清抗体療法を開発し、世界的な注目を浴びていた。しかし、帰国の目途が立たない。というのも、彼は、熊本の同郷の先輩、留学を勧めてくれた帝大(後の東京帝大、当時は日本で唯一の大学)での師、そして細菌学の権威、緒方正規が発見したと自負する「脚気菌」の存在を否定したからだ。
戦乱も無くなった平穏な江戸時代、安泰なはずの将軍や大名がやたら短命で死んでいる。すは毒殺か、とも疑われたが、原因がわからない。くわえて、武士たちが参勤交代で江戸屋敷詰めになると、これまたみな足元がおぼつかなくなり、全身がむくみ、突然に死んだりする。が、国元に帰ると、けろっと治る。それで「江戸患い」と呼ばれた。これが一気に広まったのが、西南戦争。官軍兵士がバタバタ倒れる。病死する。明治の成金富裕層も、同じ病気にかかり、死者だけでも毎年数万人を超えた。
欧米から呼ばれた外国人医師たちも、日本に来て、この奇妙な流行病に直面。おそらく日本独特の特異な伝染病だろう、ということで、その原因菌の探求に奔走した。そして、1985年、帝大医科大学衛生学教室教授、緒方がついにその「菌」を突き止めた、と発表。それは、北里が渡欧してすぐのこと。しかし、北里は、すぐに師、緒方の実験の不備を指摘した。だが、これがまずかった。緒方本人はともかく、緒方にぶらさがる官学派は、北里を「忘恩の徒」と罵倒。
だが、彼ほどの人材だ。すでに諸外国からも招聘の声はかかっていた。それで、彼をなんとか日本に引き戻そうと、内務省は私学の雄、慶応大学の福沢諭吉に相談。とはいえ、同学の医学所は、ドイツ流の官学派に対して英国流を採っていたものの、西南戦争(1877)後の旧士族衰退で、すでに1980年に廃校に追い込まれていた。それでも、福沢はあえて私財を投じ、1992年、彼のために伝染病研究所を建てる。北里、39歳。
百日一考
2018.06.30
2021.12.30
2023.01.17
2023.04.29
2024.03.22
2024.04.07
2024.10.16
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。