/デッサンの初歩においては、とにかく徹底的に対象を見ることを教えられるだろう。だが、そこから一歩前に進むためには、対象を見ている自分を見ることが求められる。自分がそれをどんな風に見ているのか、そこに何をどのように感じ取っているのか、それを問い返す必要がある。/
しかし、これも、我々が動きにおいて見るもの、見ないものを考えれば、見えるように描く方法もわかる。我々は、止まっているもの、ずっしりとそこに固定して存在感のあるものは、大地との関係、つまり、影を意識する。逆に、動いているものは、影など意識する余裕はない。それどころか、迫り来るものを強く意識して、それが魚眼レンズのように強く大きく感じられる。したがって、首のひねりがある胸像においては、胴体部を重厚な影とともにしっかりと据える一方、一瞬の勢いのある頭部についてはやや遠近を効かせ、髪なども軽く、すっと流してやる。
だが、しょせん白黒の石膏はまだ生やさしい。画塾にはかならず果物の模造品が置いてあって、これを盛り合わせにして、もしくはテーブルに転がして、白黒の木炭や鉛筆で描け、などという課題が出される。形からすれば、いくら模造でも、インチキもいいところ。だが、この場合、問われているのは、色だ。
純粋に光学的に言えば、赤はかなり暗い。茶色いパイナップルやその緑の葉より、赤リンゴの方がはるかに暗い。しかし、だからといって、その光学的明度のままに塗ったのでは、赤く見えない。もちろん人間には記憶色というものがあって、リンゴは赤だ、赤いはずだ、ということで、見る人の方が色を補ってはくれるのだが、それには、その記憶の赤の印象形式にデッサンの方が適合しないといけない。
概して、赤やオレンジなどの暖色は、我々の感覚的視覚において、膨張感がある。このために、赤はそこに膨らむグラデーションがあり、こまかな粒模様や筋模様があっても、その輪郭はつねにあいまいになる。一方、冷色系は、収縮感があって、人間には実際より暗く感じられ、その内部を読み取ろうとしないために、模様なども意識されず、平板でベタな塗りになる。難しいのは、レモンイエローで、たとえバナナであっても、酸味の鋭さを感じ取るために、明るく、それでいて冷色系の扱いで処理する。
デッサンの初歩においては、とにかく徹底的に対象を見ることを教えられるだろう。だが、そこから一歩前に進むためには、対象を見ている自分を見ることが求められる。自分がそれをどんな風に見ているのか、そこに何をどのように感じ取っているのか、それを問い返す必要がある。
しかし、デッサンはこれで終わるものではない。これらの中級の技術を交響曲のように組み合わせ、そこに人物の怒りや驚き、恐れなどの内面性まで描き出してこその絵だ。そしてさらには、静物であっても、それがそこに置かれた空気感、室内か、室外か、もてなしか、放り出しか、それとも、あえての謎かけか、それらまで、配置の強調や反射の強弱で表現しないといけない。しかし、このように人間は目に見えない内面性や空気感まで感じ取っている。そして、デッサンでは、自分が感じ取っていることをそこに盛り込んでこそ、表現になる。
解説
2022.02.22
2022.03.02
2022.04.21
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2022.05.20
2022.05.31
2022.08.06
2022.08.23
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。