/デッサンの初歩においては、とにかく徹底的に対象を見ることを教えられるだろう。だが、そこから一歩前に進むためには、対象を見ている自分を見ることが求められる。自分がそれをどんな風に見ているのか、そこに何をどのように感じ取っているのか、それを問い返す必要がある。/
正確に形が取れるのは、当たり前。しかし、それだけでは、まともな美大には歯も立たない。それでは、表現になっていないから。表現はコピーではなく、むしろそれでないもので、それを伝えること。だから、画塾の先生は無理難題を言う。もっと質感を、重量感を、躍動感を出せ、と。それどころか、黒一色の木炭や鉛筆で、色彩感を出せ、とまで言う。それで、暗褐色のビールビンと紙の飛び出た赤いティッシュ箱なんかをモティーフにしてデッサンをさせる。
しかし、そもそも木炭だの鉛筆だので、紙の上に立体を表現しているのだ。木炭や鉛筆は消え、そこに立体が浮かび上がる。このことからして、かなりむちゃな話だろう。こんなむちゃが可能なのは、じつは対象としての立体そのものではなく、我々の感覚の方の立体感を紙の上に表現しているから。それで、紙の上の木炭や鉛筆の濃淡を、我々は立体的な対象として再認識している。そして、これが可能であるのとまったく同様に、我々の感覚としての質感や重量感、躍動感、色彩感をきちんと理解して表現するならば、これらも木炭や鉛筆の濃淡を通じて表現できる。
質感とは、まず手触りだ。硬いか、柔らかいか。では、この手触りは、どこにある? モノの表面だ。我々は、硬いモノは、その輪郭で、いきなりその抵抗に接する。硬いものほど、その表面や輪郭のメリハリは、我々が実際に触れる前から強く、我々にアピールしてくる。一方、柔らかいモノにとって、輪郭はあまり意味をなさない。我々が触れればすぐ形を変えてしまうから。むしろその素材に指先が触れたとき、紙のようなざらつきか、ラップのようなツヤか、それが気になる。そこに目がいく。ただし、その立体性はかよわい。だから、我々はそれをあまり意識しない。
そして、重量感を決めるのは、モノにとってのモノの「手触り」。テーブルにとって重いビールビンは「硬い」。だから、その接地輪郭においてがっちりメリハリがある。これに対して、テーブルにふわっと置かれた布は、テーブルからすれば、あまり関係を結んでいない。したがって、そこには、輪郭が無く、触れた素材の「手触り」、やわらかな陰影が描かれる。
さて、躍動感とか、生命感とか。揺れる振り子を描け、などというモティーフが出されることはあまりないが、石膏となると、ややこしい。というのも、それがすでに表現だからだ。つまり、石膏というモノを描くのではなく、石膏が表現しているものを掴む。それも、アバタやラボルト、パジャント、アマゾンなどは、一般に初級の練習向け。実際の試験では、ブルータスやモリエール、ジョルジョ以上が定番。ましてラオコーンなどが出てきた日には、途方に暮れる。というのも、これらのようにひねた姿勢が石膏のように固定的であるわけがないから。だから、動かないモノなのに、この姿勢が瞬間的な表情であることを表現しないといけない。
解説
2022.02.22
2022.03.02
2022.04.21
2022.05.06
2022.05.08
2022.05.20
2022.05.31
2022.08.06
2022.08.23
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。