/1500年、歴史は大きく動いた。中世のローマ教会とヒエラルキア(神聖管理)、そして、前世紀のルネサンスとバブル国家が一掃され、宗教改革とともに、近代の国家と個人が登場してくる。このことこそ、その後の世界における欧米のヘゲモニー(覇権)の端緒となった。/
また、スイスのジュネーヴでは、ルターの影響を受け、若きカルヴァン(1509~64)が、教会を街の長老たちの自治とし、やはり教皇や善行を否定して、神のみにすべての決定権があるという救済予定説を採り、個人個人が神からの使命としての職業に励むことを促した。これらとは別に、英国のヘンリー八世(1491~1547、40歳)は、自分の離婚を教皇が認めないことに腹を立て、1531年、自分が英国の教会の首長となり、教会財産を没収して、絶対君主政を始める。
カトリック側でも、34年にイエズス会が結成され、教会改革に乗り出す。彼らは、ヨーロッパはもちろん世界各地に一般市民のための教養学校を設立し、聖書を各国語に翻訳するのではなく、教会のラテン語の方を人々に開放する。これとともに、それまで天才たちのみが享受してきたルネサンスの徳育を普及。ルターやカルヴァンの個人的信仰に対し、社会としての宗教の必要性を改めて訴える。
ただイエズス会も、「霊躁」(魂の体操)という特殊な個人修養の方法を採っていた。これは、ルターやカルヴァンに似て、イエスの教えのとおり、個人個人が瞑想によって神の意志を理解できる、というもの。この方法によって、これまでの修道会と違って、イエズス会士は、遠い異国の現場にあっても、教皇からの命令通信を待つことなしに、各自が即断即決で最適の行動をとることができた。(そのために、後で独断専行として揉めることも少なくなかったのだが。)
都市貴族と領邦君主の宗教戦争
16世紀後半になると、ヨーロッパでのカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、政治状況が絡んで、複雑な様相を帯びてきた。1555年のアウフスブルクの和議において、領邦君主ごとに宗教選択権が与えられた。だが、領邦君主というのは、世襲や叙任によってどこぞの地名を肩書として持つのみで、その地方をまとめて実効支配していたわけではない。それどころか、その地名のところに城や宮殿が無いばかりか、あちこちばらばらの飛び地だらけで、肩書地名のところに生まれて一度も行ったこともないなどという公や侯も珍しくなかった。くわえて、主だった都市は、中世以来、自治権を持ち、事実上の独立共和国として都市貴族(富裕市民だが正規の貴族ではない)たちが、その周辺の村落まで広大に支配しており、地名肩書だけの領邦君主の介入に激しく抵抗していた。
このため、領邦君主は、宗教的な信条ではなく、都市がカトリックならプロテスタントを(ドイツ、イングランドなど)、都市がプロテスタントならカトリック(フランス、スイス、スペイン、イタリアなど)を恣意的に選択。つまり、宗教戦争は、各地で、中世的都市貴族vs近代的領邦君主の構図となった。領邦君主は、資金源となる鉱山や港湾を開発し、そこから新たな商業路を延伸、また、都市貴族の旧市街に対し新市街や新宮廷都市を建設した。これらの建設工事には、地元建設業者と対抗して、消滅してしまったルネサンス国家の旧十字軍商業路都市から外国人フリーメイソン(自由石工)が大量動員された。また、都市貴族がその都度のテンポラリーな傭兵で攻撃をやりすごそうとしただけだったのに対し、領邦君主は、自前で常備軍と官僚制を整え、重商主義で財政基盤を固めていった。
歴史
2018.01.28
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2020.01.01
2020.02.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。