/15世紀のヨーロッパは、ルネサンス文化の花が開いた、というような温和な時代ではない。それはむしろ、官僚制や常備軍で長期経営を見据えた近代の絶対政国家と違って、欲得で縁戚を拡大し、交易の収益を傭兵に注ぎ込んで周辺侵略を重ねる独裁者たちの国々が、芸術などにも放埒に資産を費やし、財政的にも自滅破綻していった一種のバブルだ。/
このペトラルカやボッカチオの時代感覚は、ブルゴーニュで大流行した世俗騎士道とも通じる。これ以前の十字軍時代において、騎士と言えば修道会の修道士であり、そこにあったのは神や教皇への命がけの忠誠であって、異教徒に対して虐殺や略奪も辞さなかった。ところが、14世紀後半に現れた世俗騎士道は、名誉と礼節を重んじ、思い定めた貴婦人を命がけで賛美する芝居がかった茶番であり、戦いも、スポーツとしての騎馬槍トーナメントに成り下がった。これは、ブルゴーニュが、ノルマン系勢力でありながらフランス王室と同じヴァロワ家で、百年戦争を免れつつ、ギリシア・ローマの古典文化とは別のイングランド(ノルマン系)の古いアーサー王伝説などを取り込んだためだろう。
また、中世では金貸しが教会によって禁じられ、卑しいユダヤ人のみの商売とされていたが、疫病蔓延の原因としてユダヤ人を迫害追放した後、教会の禁止など無視して、フィレンツェのメディチ家のような銀行屋が各地に現れてくる。その他の商人も、専業ではないとはいえ、売買に伴う金融を行うようになり、「都市貴族」(正式には貴族の爵位を持たない)として、連携して都市を支配するほどの権力を握る。
15世紀前半
15世紀に入ると、繁栄するフィレンツェでブルネレスキ(1377~1446)がローマ風のアーチやドームを提案、ドナテッロ(c1386~1466)もローマ風の写実的な彫刻を始める。一方、教会は、フランス系とイタリア系で、アヴィニョンとローマ、それぞれに別の教皇を立てる教会大分裂に陥っていた。くわえて、1412年、無能なミラノ公が暗殺され、跡を継いだ弟は、ヴェネツィアと戦争を始め、北イタリアは混迷を深めていく。ボヘミア(現チェコ)を拠点とするルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムント(1368~即位1410~37)は、スイスのコンスタンスで公会議を開き、イングランド、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、枢機卿(イタリア)の六派を集めて、ローマのコロンナ家マルティヌス五世(1368~教皇1417~31)を統一教皇とした。
このころ、百年戦争を続けていたフランスのヴァロワ家は、狂王シャルル六世の摂政の座を巡って、オルレアン(アルマニャック)派とブルゴーニュ派が対立、一時はブルゴーニュ派が勝つも、19年、ジャン無怖公がオルレアン派に暗殺され、以後、ブルゴーニュ公国は、むしろ本アンジュー伯家(プランタジネット王家)イングランドとの連携を強め、フランス王国を東西から挟撃することになる。ところが、29年、オルレアンにジャンヌ・ダルクが現れ、フランス王国の劣勢を挽回。34年、百年戦争を終結し、ブルゴーニュ公国は、フランス王国側について黄金時代を築く。ここにおいて、ブルゴーニュの宮廷では、金羊毛騎士団として世俗騎士道で華やぎ、また、市井では、下級聖職者デュファイ(c1400~74)が俗謡の多声合唱曲を作り、ファンアイク兄弟が重ね塗りのできる油絵の技法を完成させ、市民の肖像(たとえば『アルノルフィーニ夫妻』(1934)=メディチ家のフランドル代理人)などを描いた。
歴史
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
2018.07.17
2018.07.24
2018.08.17
2019.01.21
2020.01.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。