全国に大型書店を展開する丸善ジュンク堂書店会長(※)の工藤恭孝氏。1976年に神戸・三宮に一号店をオープンさせてから40年以上にわたって「本屋はどうあるべきか?」を柔軟な発想で考え行動し、業界に改革を起こしてきた。文化放送『The News Masters TOKYO』のパーソナリティー・タケ小山が、そんな工藤氏の“頭と心”を作ってきたものは何か?をじっくりと探ります。 (※収録当時は社長。11月1日付で会長に就任されました)
工藤恭孝氏
「本屋さんにはなりたくなかった」
本好きの間では有名な話だが「ジュンク堂」という書店名は工藤氏の父・工藤淳さんの名前をひっくり返してできたもの。
「神戸には有名なパン屋さんでフロイン堂というのがありましたから、ジュンク堂?パン屋さんか?と、よう言われましたね」と、やさしいトーンの関西弁で語り始める工藤氏。
「でも、父はこの名前が気に入ってくれたようで、そのおかげで応援してもらえました。物心ついたときには父は本屋さんをやっていました。そのうち問屋も始めたりして、倉庫には本がいつでも山積み。本が当たり前のようにすぐ身近にいつもありました」
子どもの頃、店番をしながら雑誌を読んだりもしていたという。だが「本が大好きだったんですね」という質問には、苦笑する工藤氏。
「好きというより、その頃は『本はもうええわ!』って思ってましたね」
本屋さんはとにかく忙しくて、朝から晩まで働いている。年中ほとんど休めない。忙しそうな父親の姿を見ていたので「本屋さんになりたいなんて、これっぽっちも思っていなかった」という。
当時、街の本屋さんは年末は大晦日の除夜の鐘が鳴る直前まで開いているのが当たり前だった。
「紅白歌合戦を見た後で、付録に楽譜が載っている雑誌を買いにくる方も多かったですね」
週刊誌や月刊誌がドカンと納品されると、子どもたちも駆り出されて荷解きを手伝ったりもした。「父は働きづくめの一生でした。ああにはなりたくないなぁってずっと思っていたんですけど…」と、一瞬の間をおいてこう続けた。
「運命やったんでしょうね」
工藤氏は、実は理工系の科目が得意な高校生だった。ところが、高校一年生の体育祭で大けがをして意識不明の重体で、一時は生死をさまようくらいの状態に。
「たまたま運が良かったから助かったんだ、と周りの人から言われました」
ケガのせいで2学期は授業を受けることができず、成績はガタ落ち。理系に行くなら落第と言われ、それでも「明日死ぬかもしれないと思うと、無駄なことに時間は使いたくないな」と思い、文系に進むことを選んだ。
「あの時ケガをしなかったら、今ごろは順調に理系に行ってSEにでもなってたかもしれません。何が幸せなのか不幸なのか、わかりませんね」
「権限移譲」で赤字脱出!
神戸は山と海に挟まれた、いわば「ウナギみたいに細長い街なんです」。そんな街では、大型書店は流行らないというのが業界の常識であったという。
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