崇神天皇の住吉大運河計画

2016.11.05

開発秘話

崇神天皇の住吉大運河計画

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/大和政権は、奈良湖干拓拡大とともに疫病が蔓延し、全滅の危機に瀕した。これを須恵村の渡来人治水土木技術者が解決。これに気を良くした崇神天皇は、住吉港から羽曳野にまで至る幅10メートル、全長30キロの大運河を計画する。/



 もとより生駒山系と金剛山系の間を大和川が駆け下り、金剛山系の石川と合流する柏原付近は、しょっちゅう氾濫していた。そこで、石川をまるまる付け替えることにしたらしい。大阪芸大と貴志駅の間の河南橋がおおよそ標高36メートル。ここにいまも堤があり、ここから西岸に水路で水を引いている。この水路もまた石川と呼ばれ、いまは古市の手前で本来の石川に戻っているが、当時、ここから白鳥陵、仁賢陵を抜け、仲哀陵の手前で西へ折れ、恵我ノ荘北側を回り、現河内松原駅南側(標高21メートル)で松原の丘を断ち切って、布忍(ぬのせ)に至る巨大水路が掘られた。ここから依網池へ。その標高、10メートル。そして、住吉大社の西で3メートル。当時、どうやって標高を計ったのかわからないが、この線で行けば、全長おおよそ30キロの運河、計算上はたしかに水は引ける。


 ただ、古市古墳群のあたりまでは完成水路跡があり、また松原の丘にも遺跡が残っているものの、実際に住吉港まで全路開通したのかどうかはわからない。むしろ羽曳野台地を降りたところ、松原に出た沖積平野の部分で水が浸み抜けてしまい、大失敗だったのではないか。このために、天野川の水を、沖積平野に出てしまう前のところで堰き止め、西除川と東除川として台地に沿った2つの天井川水路で引いて、運河の水を途中で補う計画があらためて立てられたのだろう。これが狭山池。須恵村の大田々根子の屋敷のすぐ東の谷下。その竣工は616年。聖徳太子のころ。埋設水路の木材の年輪から確実だ。いまからちょうど1400年前のこと。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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