崇神天皇の住吉大運河計画

2016.11.05

開発秘話

崇神天皇の住吉大運河計画

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/大和政権は、奈良湖干拓拡大とともに疫病が蔓延し、全滅の危機に瀕した。これを須恵村の渡来人治水土木技術者が解決。これに気を良くした崇神天皇は、住吉港から羽曳野にまで至る幅10メートル、全長30キロの大運河を計画する。/


 ただ、沖積平野はヤワで、洪積台地から降りたところで、川は両岸を浸食して底が下がり、ときには地下水になってしまう。このため、細い狭山平野は、面積のわりに耕作可能なところがあまり無かった。それで、中国・半島のように、ここに灌漑のための溜め池を作ろう、というのだ。依網(よさみ)池。場所は、現在の阪南高校グラウンド・依網池公園広場から、その対岸にかけて。(江戸時代、1704年の付け替え工事で、大和川は、柏原から北に流れていたのを西へ開削し、依網池を経て住之江へ流すようになる。このため、依網池は新大和川の途中に吸収されてしまった。)


 ところで、このころ半島情勢はかなり不安定で、そこに大和政権ほか、いくつもの勢力が複雑に介入していた。にもかかわらず、大和は交通の便が著しく悪かった。河内湖の入り口であった難波は、淀川の堆積物で埋まってしまい、堀江と呼ばれたように、浚渫しないと干潮時に船が入れなくなってしまっていた。また、そこから河内湖に入っても、奈良盆地から流れてくる大和川と金剛山系から流れてくる石川の土砂で、ここも中途半端な沖積沼地が広がっていてどうしようもない。このため、河内湖に入らず、難波で上陸して、上町台地の難波大道をまっすぐ南下し、現大泉緑地のところから西へ大津道を東へまっすぐ進み、柏原、亀の瀬を経て奈良に入るという面倒な長い陸路を行く必要があった。


 第14代仲哀天皇の后、神武皇后も、「三韓征伐」の後、大和へ戻ろうとしたが、摂政11年、難波で船が進めなくなり、兵庫県の武庫川に引き返して占うと、住吉三神(そこつつ・なかつつ・うわつつ)が、自分たちを大津の渟中(ぬな)倉の長峡(ながお)に祀れ、と言うので、そこに住吉大社を置いた、と言う。後にここが新港となり、瀬戸内海、そして半島へ出る近道となる。じつは、依網池も、狭山平野の灌漑用というのは建前で、ここから住吉大社へ水路を切っている。つまり、住吉大社に上陸し、依網池を経て大津道出るのが大和への最短ルート。ただし、これは防衛上の極秘事項だ。


 だが、取水する天野川(狭山池の取水により消滅)が流れてくる狭山平野は、沖積のために途中で大半の水が浸み込んでしまい、住吉大社~依網池の水路も、船が通るにはどう考えても水量が足らない。ところが、1964年、航空写真によって、当時のとんでもない国家的土木プロジェクトが発見された。江戸時代の大和川付け替え以前に、金剛山系からの石川を依網池経由で住吉港へ西へ流す長大な運河。たしかに、日本書紀の仁徳14年に、石川の水を引くために大溝(おおうなで)を掘った、との記録はある。そして、その後の調査で、ほんとうに運河遺跡が発掘されてしまったのだ。幅10メートル、深さはところによって5メートルにもなる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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