「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」とは、上杉鷹山が家臣に与えた家訓である。正確にはこの後に「成らぬは人の為さぬなりけり」と続く。この言葉は、できそうもないことでも、その気になってやり通せばできることと解釈される。本当に、できるようになるのだろうか。
しつこくやる、ていねいにやる
何ごとも基本的に不器用で、どんくさい。ただ、一つだけ取り柄らしきものがあるとすれば、しつこいのである。チマチマと繰り返してやることは、比較的得意である。
そこで壁付きストレッチを、毎日お風呂から上がった後、やるようになった。2ヶ月ぐらい続けていると、少しずつ体が曲がるようになった。やがて手がつくようになり、次は肘、そして半年後ぐらいにはおでこがつく。そこまでいくと欲が出る。がんばってあごまでがつくようになった。
稽古についても、幸い自営業であったため、自宅でも基本の突き蹴りを毎日繰り返した。雨戸を閉めると窓ガラスに自分の姿が映る。お手本となる教科書を見て、自分の姿を矯正しながら稽古していると、基本の動作はなんとか身についた。
努力の質×努力の量
自分のストレッチや空手の稽古をもって「為せば成る」などと偉そうなことを言うつもりはまったくない。ただ、努力は裏切らないという言葉にも、ある程度の真実が含まれているとは思う。
そこで大切なのが、努力の「質」ではないか。お尻の骨盤が後ろに倒れたままで、いくらストレッチを重ねても、体は柔らかくならなかっただろう。基本の突き蹴りにしても、自分の癖を治さなかったら、黒帯をもらえるようにはならなかったのではないか。
空手を含む武術の修行では「守破離」が大切だと言われる。守とは、型を真似ぶことだ。型とは、動き方のエッセンスである。空手にも型稽古がある。基本の稽古、突き蹴りなどもきちんとした型がある。大切なのは、型にはまること。
要するに、正しい動きを、まず身につける。そのためには、自分の癖や偏りを矯正しなければならない。だから、あえて型にはめる。これが努力の質である。それを繰り返す、すなわち努力の量を意味する。
ここまでできれば、一応、入り口には建てる。すなわち「為せば成る」のである。そこから先、型を破り、さらには型を離れて新たに自分の独自の動きまで行けるかどうか。努力の量が求められるのはもちろんだとして、そこには生まれ持っての素質が求められるのかもしれない。
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2015.07.17
2009.10.31