リーダーが「カリスマ性」を求めるより、まず必要なことは「業績を上げられるリーダーになること」である。
先日、某社でのリーダーシップ研修で、リーダーの理想像のセッションをしていた時のことである。
あるチームから、リーダーに必要な能力として「カリスマ性」ということが提案された。
その気持ちは分からないではないが、若きリーダーが「カリスマ性を身につけよう」と目指すとろくなことがないと僕は思ったので、反対した。
確かに、カリスマ性は、偉大なリーダーに不可欠な特性として、リーダーシップに関する文献などで取り上げられている場合もある。
カリスマ性の意味は、辞書によると「人々の心を引きつける強い魅力があること。多くの人から支持されること」とある。
先天的なものとは思わないが、多分に、偉大な業績を上げた「結果として」カリスマ性が生じてくる場合か、話し方、外見、存在感などに惹きつけられた群衆の存在によって出来上がった「イメージ」のどちらかではないか。
従って、若きリーダーたちが、まずもって目指すべきは「業績を上げられるリーダーになること」に専念することだ。
それによって、「結果として」のカリスマ性に期待すべきなのである。
そもそも「カリスマ性」という能力を身につけようと決意しても、何をすれば近づくことができるのかが分からない。
「人を引き付ける話し方を身につける」ことが必要なのであれば、カリスマ性と書かずにそう書いて具体的行動として目指すべきである。
「多くの人から支持される一貫性のある行動を取る」ことが必要なのであれば、カリスマ性と書かずに、そう書いて具体的行動として目指すべきである。
ドラッカーの指摘によれば、ジョン・F・ケネディは近代の政治家では最もカリスマ性のある大統領の一人だったが、実は彼ほど実績として何もできなかった大統領はいないのだという。
逆にドラッカーは、ドワイト・D・アイゼンハワーとハリー・トルーマンについて、カリスマ性という点では、十人並みであったにもかかわらず、きわめて有能なリーダーであったと評している。
一方、スターリン、ヒトラー、毛沢東の三人ほどカリスマ的なリーダーはいなかったが、彼らは、史上例のない悪行と苦痛をもたらした存在であった。
リーダーシップにカリスマ性は必要ない。
カリスマ性など身につけようと思うのではなく、リーダーとしていかに正しいことを成すかに意識を集中せよ。
人事組織
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今野 誠一
株式会社マングローブ 代表取締役社長
組織変革及びその担い手となる管理職の人材開発を強みとする「組織人事コンサルティング会社」を経営。 設立以来15年、組織変革コンサルタント、ファシリテーターとしてこれまでに約600社の組織変革に携わっている。