企業経営は経営者の経営哲学と投資家(株主)の投資哲学によって行われていると言える。経営哲学と投資哲学について考えてみたい。
哲学という言葉は現役をなかば引退した人しか使用してはいけないような重さがある。言葉はそれを発する人自身に対して最も重大な意味を持つ。自分の発する言葉を自分自身が真摯に受け止められらないのであれば黙っていた方が良い。
個性的であることは難しい。1.28億人の日本の人口において客観的、絶対的に個性的であることはほとんど奇跡である。特殊な才能や巧みなプロモーションがなければ一人の人間が客観的に特別であることを主張することは難しい。一方で、人は一人一人独自に考えて行動している。「世界に一つだけの花」のような歌が人気を集めるのは、ある意味では特殊な現象だと思うが、ある意味では納得できる。人はそれぞれ特別なのである。
いかに生きるかを定義するのは難しい。孔子、ソクラテス、アリストテレスなどをはじめとして戦国の武将、明治維新の志士、現代社会や産業の基盤をつくった名経営者などによって同じような内容の事柄が別の背景で語られていることは多い。大きな功績のある人物の言葉には重みがある。
教育とは不思議なものである。多くの人々に同質の価値観や考え方を植えつけることになる。言語や文字、それらを広く伝達することのできる活字、さらにはそれらをほとんどコスト負担なしに世界中に発信できるインターネットというメディアはまさに画期てきである。ブログなどを活用すると特別な功績などなくても世界中に問いかけることができる。多くは全く注目されなくても、一部の問いかけは注目を集め、人々の意識や社会を変えていくことがある。
前置きが長くなったがテーマを表題の経営哲学と投資哲学に戻したい。
経営には哲学がいる。経営には組織がどうあるべきかという判断が必要である。そこに定型はない。社会における基本的なルールを守っている限りにおいて、どのような組織のあり方を選ぶかは経営者の自由である。しかし、経営者の選択は経営成績として評価されることになる。具体的には、売上高、利益、資産価値、現金残高、あるいは、企業価値という基準で利害関係者から評価を受ける。一定水準以上の評価を得なければ組織は存続しえない。経営は基本的に自由であるが、無計画ではいられない。究極的には才能、資質、適性などが問われる。
経営者として確固とした信念や哲学がなければ適切な評価は受けられない。最悪の評価でさえも謙虚に受け止めて、反省すべきは反省して、考えや計画を説明していかなければならない。哲学などと言うと大げさかも知れないが、価値基準や思考の過程を明確に示す必要がある。また、そのような必要性が、価値基準や思考プロセスをより良い、より正しいものに高めていくことになる。
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2007.11.27
2007.12.04