日本社会に善い「改革」が溢れるために、我々にできることは何か…?反例主義を捨て、支援主義になりませんか、という提案。
欠点の指摘そのものは一向に構わないと思います。しかし、大元の姿勢が
1.欠点の指摘をすることで、修正し、全体がよりよい方向に動けばよい、と考えての指摘
2.その欠点を直さない限り全体を進めてはいけない、とする指摘
3.全体が気に食わないため一つの欠点を持ってして意図的に全体を止めようとする指摘
のどれか、で全然違います。
1は素晴らしい姿勢、2は場合によって善し悪しあり、3は基本的に好ましくない姿勢と考えます。
竹中氏の指摘したのは、3ですね。で、3の指摘を呑んでしまわざるを得ない雰囲気の社会では、竹中氏の指摘するように、チャンスに改革を起こし日本を良くしてくことができないばかりか、上記2の「悪い」指摘の方がより多く存在するようになり、改革を止める方向へミスリードしてしまいます。
改革の必要がない社会ではそれでよかったのかもしれませんが、今の日本社会、現状保全をするだけであっても、以前では「改革」と言われていたことを実行しないと、社会の「幸せ」が持たない、そう感じています。これ、きっと、僕だけではないですよね。
で、あれば、欠点の指摘をするにしても、1および「善い」2の行為が全体を取り巻くような社会を創っていくことが大切ではないでしょうか。
2および3は、減点主義とでもいえる考え方ですね。だからよく改革派は、「減点主義より加点主義で!」なんて言葉を言いますし、僕も比較するなら、減点主義より加点主義の方がよほどいいと思います。
しかし、「減点主義より加点主義で」という考え方そのものが、減点主義を(全)否定することで加点主義を導く…考え方の構造だけ見ると上記3と同じではないか、とも思うのです。
1に傾き過ぎると改革の暴走も生みますし、善い2の指摘を(社会が)見過ごす場合もありますから、減点主義的考え方の中にも善い部分はあるわけで。
※とはいえ、今の日本社会においては、むしろ1に傾き過ぎる方がいい現状もある、と個人的には思いますが、それは別の話として…。
3の考え方を否定するなら、「反例主義は止めましょう」だと思うんです。
一つの善くない点を指摘しただけで全てダメだという、その論理展開が蔓延る社会は、善い改革が妨げられるんです。
反例を出して命題を否定する方法が正しいのは、命題が全称命題(=一つの集合を構成する全ての項について、 ある性質を肯定する命題。「人間は全ていつか死を迎える」など。)の場合のみ。
命題そのものの正誤が100%と(最初から)言い切れない場合、反例をあげてもそれだけでダメと言い切ることもできません。
で、世の中の意見、代替案…その他、全称命題なんてほとんどないですよね。
ということは、「反例あげても、それだけで案そのものにダメ出しするのが正、ではない!」と言い切れるわけですし、言い切る社会の方が改革は進むと思うのです。
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