「船頭多くして船山に登る。」 ということわざがありますよね。 指図する人が多すぎると、かえって統率が取れず、当初それぞれが考えていた目的とは違う方向性に進んでしまうことの例えです。
現所属部署が別の場所に移動するため、昨日「その事前準備」としての荷物の整理など、ちょっとしたお掃除がありました。
部署で管理している様々なスペースの物を、整理・廃棄したわけです。
あくまで僕の見積もりですが、1人が1日やれば終わってしまうような量で、分担すれば早くなる、けれども大人数でやっても非効率になるだけ、のような労働です。
事前に、今日そういう作業をやる、ということを聞かされていたのですが、僕自身、「船頭多くして~」になるのはキライな性分です。
要するに、みんな一斉に作業し、作業中
「これはこうしよう」「いやこの方がいいのでは」
という会話が到るところで聞こえたり、2人いれば運べる机の周りに4人も5人も集まって、
“表面だけの「一緒にやっています」感”
を漂わせたりするのは、好きじゃありません。
何よりも業務時間中は、生産性を最大限にしたいですからね。
で、結局、今回の作業は、連絡が来たときから
・先に処理・判断してしまった方が良いもの
・当日一緒に作業することのできる「人」の数
などを事前に自分なりに予測し、当日までに
「先に自分で済ました方が効率的(=当日“みんなと一緒に”作業するより、自分も周りも少ない時間で片付けることができる)」
と思えるところはさささっと先に片付け、
「自分で(整理してよいかどうかの)判断ができないところ」
を残しておき、今日僕は何をしていたかというと、机に座って、
「今しなければいけない優先順位の高いこと」
をこなしていました。
さて、自分の所属する部署・組織はそんなことないんですが、世の中には
「同時に同じ行動を取れない人は、協調性がない」
と、表面だけ見て判断する人も、相当数でいるんですよね。
僕から見ると、そう判断する人は逆に、責任感がないように映るときもあります。これまたことわざ!?で例えると、
「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」
と同じで、「みんなですること」により暗黙の美徳・ルールが形成される、とでもいいますか。
とくに、年配の…そうですね、管理職や監督職クラスで、「みんなでやる」という表面的事実のみ重視する人は、(何かあったときに)自分自身で責任をとりたくない、自分1人が「判断」したと思われたくない、という無意識の欲求が強い人も少なくないのではないでしょうかね。
僕にとっての協調性は
「完成品に到達するまでにできている“穴ぼこ”を発見し、“穴ぼこ”を自ら進んでピースで埋めていくこと」
次のページ表面上の協調性、つまり「同じときに、同じことをやる」=...
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2007.12.12
2007.12.25