社会に育んで生きたい、本当の意味での優しさを。
「~のため」という言葉を使うのであれば、「その子のため」ではなく「社会のため」。
それも、ボランティア的な意味での「社会のため」ではなく、自分が生きている社会にこのような幼稚な考え方を保護する立場が増えるなんてとんでもない、という、自分の利益からくる考え方なんです。
本件に「優しさ」を見つけるのであれば、この子に対して叱責するという、大人がとる「当然」の態度を見せた後、その影響を受けシュンとなる(かもしれない)子どもに対しできる、「アフターフォロー」をさします。
一人で部屋に篭ったらならば、出てきたらいつでも食事が出来るように用意しておく、とか。
余りにも一人で部屋にいる時間が長くて心配ならば、その子の友人に頼んで携帯に電話をかけさせるとか。
その子を叱責するのを避けるのではなく、叱責した上で、立ち直り、社会の立派な成員となるように仕向けることが、優しさだと思うんです。
そして、その優しさを最大限に見せられるのは、紛れもなく家族です。
もちろん、そんな家族を支えられるように、裏方に回る周りの人たちも優しさを発揮できますし、こんな子がいつでも相談をしにきていいように、電話ボランティアで待機しているサポートセンターのようなものがあれば、その人たちが取っている態度も優しさでしょう。
大人としての「当然」の態度を見せず、叱責しないことを「優しさ」だと捉えている人がいるようですが、大きな間違いです。
組織における上司部下の関係でも、同じことが言えます。
本サイトの読者の皆さんであれば、上記の流れで考えればすぐにわかることでしょうから、あえてここではこれ以上述べません。
繰り返しになりますが、僕が今回、日記で見せた考え方へ「優しい」という言葉を投げかけてくれた事に対しては、有難く頂戴しているんです。
でも、だからこそ伝えたい。
この考え方を「当然」と捉え、より本当の優しさが充満する社会になることを願っている、と。
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