広瀬さんといえば、軽快な曲を伸びやかに歌い上げるハイトーンボイスを連想する人も多いだろう。実は広瀬さんは5歳から音楽の英才教育を受け、国立音楽大学卒業というクラシック畑の出身。その彼女が、ポップス歌手として活躍するに至った事情とは……? [嶋田淑之,Business Media 誠]
マイケルに楽曲を提供したい!――ロサンゼルスでの日々
「国立音大では作曲科だったので、作品さえ出しておけば、授業にはそれほど出なくても大丈夫だったんです。それで、ロサンゼルスでポップスの作曲法を学ぶために個人トレーナーにつきました。毎日、午前中は語学学校に通い、午後はレッスンでしたね」
希望に満ちた日々を送る中で、広瀬さんはあるアドバイスを受ける。「私は声楽的というよりは器楽的な曲を書く傾向が強かったので、歌を歌う練習をした方がいいと薦められたのです」
広瀬さんの作る歌は、音域が広く、その中で音が急上昇・急降下するなどダイナミックな変化に富んでおり、それが大きな魅力の1つになっている。しかし、それは同時に、一般の人が歌うには、やや難しいとされる原因にもなっているようだ。それは、彼女がヴァイオリンやピアノなどを想定して器楽的な発想で作曲してきたからだとされる。アメリカのトレーナーは、そんな彼女に、音が滑らかにつながってゆく声楽的な発想で作曲ができるようにしてあげようと考えたわけである。
彼女はマイケル・ジャクソンのボイストレーナーであるセス・リグス氏のオーデションを受け、東洋人で初の合格者となった。マイケルに曲を提供する夢に向けて一歩近づいた瞬間だった。
国立音大を無事卒業後、広瀬さんは渡米して約3年間、リグスの教えを受けた。「とにかく褒め上手な先生で、毎回、歌うのが楽しくて仕方がなかったですね。そのおかげで、声がよく伸びるようになっていったんです」広瀬さんの特徴である、ぐんぐん伸びるあのハイトーンボイスは、リグス氏のボイストレーニングによって花開いたものだったのだ。
やがて彼女は、自分の曲のデモテープ作りを始める。「でも、私の曲を歌ってくれる日本人がその頃ロサンゼルスにいなかったので、全部自分で歌っていました。そうしたら、(曲よりも先に)声の方が評価されてしまって(笑)。日本から“歌手”のオファーが来たんです。マイケルに曲を提供するという目標に向けて動いていた私としては、違和感を覚えましたね。正直言って、日本でのコンサートやライブ活動には、当時、それほど関心がありませんでした」
デビュー、そしてミリオンヒット
ところがある日、状況は一変する。「ビクターから『曲を採用するので歌も歌いませんか?』という提案があったのです。しかも、『アルバムとして出しませんか?』ということになりまして」
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広瀬香美
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